昔の漫湖 聞き書き その4後編
昔なつかし漫湖と地域のお話、その4後編です!
前回に引き続き、長年、古波蔵にお住まいの仲村渠善照さんのお話しです。
戦前から戦後にかけて、人々の暮らしや風景はどのように変わっていったのか。そして戦前の漫湖にはどんな生きものたちがすんでいたのでしょうか?たくさんの思い出と共に語って頂きました。
● 戦争が終わって… ●
―戦争が終わった後はどうされていたんですか?
仲村渠さん:米須、嘉数と移って、古波蔵に戻ったのは…1947年頃だったかな。その頃はこの辺で軍作業していたよ。PWってわかる?捕虜になった日本兵は一般の人とは別にされて、この人たちも那覇軍港で作業していたよ。奥武山にキャンプ(収容所)があってね。
―戦争が終わって古波蔵に戻ってくるまで2年かかったんですね。
仲村渠さん:それでも那覇から壺川の辺りまではまだ米軍が使っていたよ。あそこはハーバービュークラブもあったから。嘉数にいた時はものがなくてとにかく大変だった。配給もない。米須はそれでもまだ湧水があったけど。豊見城城址が米軍のゴミ捨て場になってたから、そこで残飯とってきて、モビール天ぷら※1して。トウモロコシの粉とかメリケン粉で、臭い消しにミカンの葉をいれるわけ。真玉橋の東にも収容所があったよ。テント小屋がいっぱい並んでて、MP屋※2もあった。これは見張り小屋みたいなもので、脱走者見つけたら撃つわけさ。自分がコザにいた時もこれで5人やられた。夜になるとこのMPが(村に)来よったよ。女の人探して。
―ここでもそういう事があったんですね…。
※1 モビール天ぷら
あるいはモービル天ぷら。機械用の油圧油(モビール油[アンダ])で揚げた天ぷらのこと。終戦直後の物がなかった頃の沖縄で食べられた。これを食べると食後に黒い油が口に残り、下痢になる人も多かったとか。(※健康を害する恐れもあるので、絶対にマネしないでください!)
※2 MP
憲兵(Military Police)のこと。米軍内の軍人・軍属による事件や事故の取り締まりといった警察活動が本来の役割だが、米軍統治下の沖縄では民間地域での警察活動やデモの取り締まり等も行った。基地外での米軍人による犯罪の取扱いについても絶対的権限を持ち、住民が被害者である事件でも民間警察の介入を許さず、被害者が泣き寝入りせざるを得ないといったことも多かった。沖縄における米軍支配の象徴ともいえる存在。
写真「工作隊のコンセット兵舎」(那覇市歴史博物館 所蔵)写真は現在のハーバービューホテルがある場所で、戦後は米陸軍工作隊の兵舎があった。朝鮮戦争(1950-1953)で工作隊がひきあげた後に米軍のメスホール(食堂)や将校クラブができ、その後「ハーバービュークラブ」となった。1957年頃からは政財界の有力者の会員制社交クラブとなり、「沖縄鹿鳴館」とも呼ばれた。キャラウェイ高等弁務官が「沖縄の自治は神話にすぎない」と発言した演説があった場所として知っている人も多いのでは。本土復帰(1972)に伴い土地は返還され、ハーバービュークラブは取り壊された。
―仲村渠さんは軍作業でどんなお仕事をされていたんですか?
仲村渠さん:色々やったよ。軍桟橋でフォーク作業していた時もあった。ポストエンジニア(米軍のエンジニア部署)が沖縄の道路つくっていたからその仕事もしたよ。アスファルトの代わりにガジャンビラの岩をクラッシャーで砕いて、イシグー道※3つくってね。軍作業しながらアタイグヮー(家庭菜園)もやっていた。日曜は楚辺と古波蔵の間を8往復くらいして、肥料(人糞)を運んだりもしていた。休む日はなかったよ。軍作業していたのは1967年頃までだったかな。ベトナム戦争で軍より民間の給料の方がよくなっていったから、軍作業辞めてからは建築屋していた。家畜検疫所で働いたこともあったよ。
―どんなお仕事ですか?
仲村渠さん:牛にヤギにレグホーン(採卵鶏)に…色々世話してたよ。増やして各村に配る用にね。
※3 イシグー道
イシグー(石粉)とは琉球石灰岩が細かく砕かれ砂利状になったもののこと。かつて首里城の綾門大道(アイジョーウフミチ:守礼門と現在はない中山門の間の大通り)や、識名園の本門から育徳泉へと続く石畳道などは、イシグーで舗装された道だったことが知られている。かつては集落内など各地にもイシグー道があったそうだが、今ではほとんど残っていないと思われる。
● 戦前の古波蔵 ●
―戦前の古波蔵はどんな暮らしだったんですか?サトウキビやイモを作ってたとのことでしたが。
仲村渠さん:昔は周りみんな畑。だから鶏の放し飼いは罰金とられよったよ。国場とか小禄では、那覇※4から人糞買って堆肥にしていたけど、堆肥は牛糞を使ってた。古波蔵は畑も小さいし、舟もなかったからね。
―何か運ぶ時とかどうしてたんですか?
仲村渠さん:オーラー(もっこ)使ったり。みんな自分で歩いて。バーキ(ざる)売りに東町まで行きよったよ。馬車で荷運びの仕事している家も7軒くらいあった。馬車の道具を作る人が壺川にいて。
―なるほど。仲村渠さんの家は何か飼っていたんですか?
仲村渠さん:うちは馬とかヤギ飼っていて、学校終わったらエサにやる草を刈ってくるのが仕事だった。豚もいたよ。
―ウヮーフルってどこの家もあったんでしょうか?今も残っているような石造りのものはお金持ちの家にしかなかったと聞いたことがあるんですが。
仲村渠さん:あんな上等じゃないけどあったよ。墓とウヮーフルはいつもきれいにしてた。
※4 那覇
ここでいう「那覇」とは現在の西町・東町・若狭・泉崎の辺りのこと。かつては「那覇四町(なはゆまち)」とも呼ばれ、ここに役所なども設置されていた。1954年に旧首里市と旧小禄村が、1957年に旧真和志市が編入される等して現在の那覇市になった。
ウヮーフルとは豚の飼育小屋を兼ねた便所のこと。「ウヮー」は豚、「フール」は風呂の意味。衛生上問題があるとして大正5~6年(1916-1917)以降は新規のウヮーフル設置が禁止された。写真のウヮーフルは、那覇市の田原公園の一角に残る南前下庫理(フェーメーシチャグイ)家のもの。石積みのかなり凝った造りで、明治の終わりから大正の初め頃にかけて作られたとされる。
仲村渠さん:家畜のエサ用の草取りは古蔵小の辺りから国場まで行くこともあったよ。
―国場まで?その辺の草じゃ駄目だったんですか?
仲村渠さん:なかったんだよ。今と違ってあの頃はガスないさ。タムン(薪)はヤンバルから船で運んでくるから高くてわずかしか買えない。正月用に、5束くらい。だからみんなあちこちから枝とか葉っぱとか燃やせるもの集めて(煮炊きに)使って。今はアガリヌモーにも木がたくさん生えているけど、あの頃はもうとりつくされて、上の方はカヤ場だった。ヒラマーチーは残っているけど。ヒラマーチーわかる?大きい立派な松の木だよ。こう、横に広がって。母は奥武山まで松の葉をとりに行く時もあったよ。サトウキビの枯葉も火焚き用に使ってたね。
―因みに火ってどうやって点けてたんですか?
仲村渠さん:マッチ使ってたけど、戦争になるとどんどんものがなくなっていって(マッチもなくなった)。火が消えた後の炭に灰をかけておいて、またそれで火つけるわけさ。熱が残っているから。石油もなくなって、牛の脂をランプに使ったりしたよ。
樹齢およそ200年とされる古波蔵の「ヒラマーチー」。松の木は葉やまつぼっくりもよく燃え有用だったこともあり、戦時の木材需要の高まりで多くの木が切られていく中でも、切らずに大切にされていたのだとか。激しい戦禍を生き延びたヒラマーチーは、今も古波蔵の人々を見守っている。
● 漫湖の生きものたち ●
―古波蔵の人達は漫湖で漁等はしていましたか?
仲村渠さん:古波蔵はみんな畑が忙しくて、海(漫湖)にはあんまり行かなかった。行くのはスーマンボース(小満芒種:梅雨)の時。雨で畑ができない、収穫した大豆も干せないような時くらい。近所のおじーがガザミ獲っていたよ。大潮の時はウナギもいっぱい入ってきよった。
―ウナギも獲ってたんですか?
仲村渠さん:あれは骨が多くて処理するの難儀だから、あんまりとって食べることはしなかった。小学生の頃はよく海で遊んだ。中学生なんかは真玉橋から飛び込みして遊んでたよ。あの頃は今と違って娯楽が少ないから、昔の青年たちはアシビナーで角力※5とったりしてね。ウフヤー(大家)近くのアシビナーには岩が3つあって、これで力比べしていた。大中小とあって、これを持ち上げるわけ。あとは、岸の方に“シーグヮー”って岩が2つあった。青年たちは夜そこに集まって遊んでたよ。
―仲村渠さんも?
仲村渠さん:いや、自分はまだ小さかったから(参加したことはなかった)。
―今は影も形もないけれど、シーグヮーはどこにいったんだろう…。
※5 角力(すもう)
沖縄や奄美で行われてきた伝統的な「沖縄角力」は、ルールや技など本土の大相撲とは異なる。裸に廻しではなく角力着を着て、両手で相手の帯をつかみ、右四つに組んだ状態から勝負が始まる。戦前は常設の土俵もなく、広さや型にも規格がなかった。若者や子どもたちの遊びとしてだけでなく、奉納行事として行われるなど、地域の年中行事と深く結びついたものだった。那覇市牧志で毎年行われる「牧志ウガン奉納角力大会」が有名。
この辺りに「シーグヮー」と呼ばれた2つの岩があった。浜が埋め立てられ道や建物ができた今は、想像するのもなかなか難しい。
―漫湖にはどんな生きものがいたんでしょうか。
仲村渠さん:アファケー(オキシジミ)がいっぱいいたよ。戦後は農連に売りに行ったりもした。ガーナームイの周りはクチャンマという細長い貝がいて。あの辺はクチャで泥が少し硬かったから、つるはしで掘って獲ったよ。あれは瀬長島にもいた。
―あ!前に別の方からも聞いたことがあります。小禄地域ではアファケーを「アンチャン」、細長い貝(クチャンマ)のことは「クチャアンチャン」と呼んでいたとか。多分同じ貝のことですよね。(※アンチャンについては「昔の漫湖 聞き書き その1後編」参照)
仲村渠さん:浅い所にはチンボーラー(巻貝)がいて、夏の潮がひいた時に獲ってた。これで小遣い稼ぎもしたよ。バーキに入れて、1~2銭くらいで売るわけ。南風原から那覇の市場に野菜売りに来る人達が、帰りに買っていったよ。ガーラとかクチミジャー※6、クークーグヮー※7、チン(ミナミクロダイ)もいた。これ釣って食べるのが子どもの遊びだったよ。着物から糸とって、屋敷周りの竹で釣竿作って。夏になると10cmくらいのセーグヮー(エビ)もいっぱいいた。古くて使わなくなったカチャ(蚊帳)を網にして竹でカゴ作って、炊いた芋を中に入れて獲るわけさ。これも獲って食べてたね。
―獲るための道具も全部身の回りの物を利用していたんですね。
仲村渠さん:そうだね。泥の中にいるクルマジェー(フトミゾエビ)というのもいた。20~30cmくらいの、テナガエビよりも大きいエビ。これは5~6月頃、雨降り続きで畑できない時とかに国場の女の人達が獲って、東町に売りに行きよったよ。ミナトグヮー※8って1mくらいのサメもいた。これは今でも時々いるよね。大潮の時に真玉橋の所で良く見たよ。橋から釣るわけさ。
―サメ釣ってたんですか⁈危ないのでは…。
仲村渠さん:あれは歯がないから大丈夫。天ぷらにして、美味しかったよ。
※6 ガーラ、クチミジャー
ガーラはロウニンアジやオニヒラアジ、ギンガメアジ等のアジの総称で、クチミジャーはその幼魚のこと。クチミチャーとも。
※7 クークーグヮー
シマヒイラギやセイタカヒイラギのこと。ヒイラギ科の魚は釣ると「グーグー」とか「ギーギー」と鳴き声のような音を出すので、このような呼び名が付いたと思われる。体の表面がよだれのようにぬるぬるしているので「ユダヤガーラ」とも呼ばれる。
※8 ミナトグヮー
川にまで入ってくるサメなので、おそらくオオメジロザメのことだと思われる。オオメジロザメはサメの中で唯一淡水でも生息することができる珍しい種で、現在の漫湖でも時々見られることがある。漫湖で見かけるのは基本的にこども(幼魚)なので、“大人のサメに比べれば” 歯がない、ということだろう。現在は絶滅危惧種に指定されている。
仲村渠さん:昔は漫湖のところどころに、カキ殻みたいなのが堆積してできた、小さい島みたいなのがあったけどね。何の貝かはわからんけど。この島にアカンミーガニ(イワオウギガニ)がいた。これは穴の中にいるからクワで獲る。お年寄り達が(雨等で)畑いけない日に獲ってたよ。
―そうなんですか?ずっと昔の、もっと海に近い感じだった頃の名残だったんでしょうか…。
「アカンミーガニ(イワオウギガニ)」(写真提供:鹿谷法一氏)アカンミーガニとはイワオウギガニ(オウギガニ科)のことで、その名の通り赤い目(アカンミー)のカニ。奄美地方ではイワオウギガニ属のカニを「アカメガン」と呼び、毒ガニとしての言い伝えもあるらしい。ただ、カニの毒性はエサに由来するものだったり、獲って食べるまでの間に腐って食中毒になる場合もある。少なくとも漫湖のものは食用として獲っていたそうなので、毒性はなかったものと思われる。因みにこのアカンミーガニ、イノー(礁池)のような、潮の満ち引きできれいな海水が入る、サンゴ等でできたごつごつした岩場等にすむカニで、現在の漫湖では確認されていない。(※写真のアカンミーガニは浦添市産)
仲村渠さん:アタビー(カエル)もいっぱいいた。あれはシンジムン(煎じ物)にしたよ。桑の木に入ってる虫がいるんだけど、10cmくらいの、あれと一緒にシンジ(煎じ)て。ターイユ(フナ)もシンジて飲ましてたよ。ターイユはクムイ(池)にいた。水がよく出るところに掘って作ったクムイがあったから。
―虫もシンジムンにしたというのは初めて聞きました。何の虫だろう…。
仲村渠さん:田んぼにはクミラー(バン)がいたよ。豊見城城址近くの、今の那覇鋼材の所にあったウィー※9の田んぼで巣作ってて、探して卵とって食べてた。美味しかったよ。この頃はマングローブなくて、この辺はユウナ(オオハマボウ)とかヨシ、あと今の古波蔵のかねひでの辺りにあった田んぼにはガマみたいなのが生えてた。冬になるとカモがいっぱい来てた。10月頃にはタカ※10もいたよ。松の木にいっぱいいて、木の高い所にいるから簡単には捕れないけど、嘉数の人達は夜に捕まえて市場で売っていた。これはタカジューシーにするわけさ。結構高く売れていたよ。メジロも捕まえたね。ヤンムチ(トリモチ)で。竹ひごでカゴ作って、鳴き声勝負させるわけ。イモとか竹の中の虫をエサであげてね。
―ヤンムチは何で作ってたんですか?
仲村渠さん:ガジュマルの樹液で作るんだよ。市場なんかでも売っていたけどね。
※9 ウィー(ヰー)
琉球藺(リュウキュウイ:別名七島藺)のこと。丈夫な素材で、ムシロやゴザ、柔道用の畳など広く利用されていたほか、船の帆としても用いられていたのだとか。沖縄では1960年代まで栽培がおこなわれていたが、合成繊維の台頭でほとんど栽培されなくなった。
(※ウィーについては「昔の漫湖 聞き書き その1後編」も参照)
※10 タカ
ここでいうタカとはサシバ(タカ科)のこと。秋に大きな群れで南へ渡っていくことで知られ、特に宮古諸島では大規模な渡りを見られることで有名。残念ながら現在は絶滅危惧種に指定されており、捕獲も禁止されている。豊見城の嘉数バンタの西側には「タカトゥイモー(鷹取り毛)」と呼ばれる丘陵がある。ここで嘉数の人々はサシバを捕まえていたのだろうか。
● 日々の暮らしの思い出 ●
―古波蔵は豆腐作りで有名だったとよく聞きますが、仲村渠さんのおうちでも作ってたんですか?
仲村渠さん:昔はみんな自分の家で豆腐作りよったよ。各家庭にシンメーナービ(四枚鍋)あったから。漫湖でくんだ海水で。「古波蔵ウシジャー」ってわかる?丸くて大きい、古波蔵の伝統の豆腐。あれが有名だった。
―初めて聞きました。大豆も自分たちで作っていたんですか?
仲村渠さん:大豆も作りよったよ。サトウキビの後に植えるわけ。でも足りないから、東町でも買っていた。戦前、あそこには色んな市場があって。豆の市場、肉の市場、黒糖の市場…。東町の奥の方(西本町)には映画館もあったよ。「平和館」と「旭館」って、2つ。バスターミナルの方にはユーフルヤー(銭湯)もあった。
―へぇ~。仲村渠さんもそこのユーフルヤーに行ったんですか?行って帰ってくる間にまた汗かきそうな距離ですね(笑)
仲村渠さん:だからね(笑)。移転前のJAがあったところ、あそこは昔ヤチムンヤー(焼物工場)で、壺とかヒューム管とか作っていたよ。先輩たちはあそこで粘土運びのバイトもしてた。バーキ2つ担いで1回いくらで。50銭くらい稼いだんじゃないかな。近くにアルコール工場があって、その間を往復してね。あそこは糖蜜で工業用アルコールと酒を作っていた。アルコール工場は小禄にもあったよ。ペリーもち屋の裏手の辺り。
写真「東町しじょう」(那覇市歴史博物館 所蔵)今回のお話の中にたびたび出てくる「那覇の市場」とは、かつて東町にあった公設民営の市場のこと。当時としては県内最大の市場だったため「那覇ウフマチ(大市)」等と呼ばれていた。写真は久茂地川沿いに開かれた「東下り(ヒガシサガイ)」と呼ばれた市場で、右手には久茂地川に架かる軽便鉄道の鉄橋が写っている。通りには木陰や大きな傘の下に売り物が並び、のぞき込む人々の塊ができている。オーラーを担いだ人やバーキを頭にのせた人、日傘を差した人や人力車等が行き交い、当時の賑わいが伝わってくる。
仲村渠さん:バスターミナルのとこは鉄道の駅だった。那覇駅。古波蔵駅もあって、一中、二中の学生たちは与那原駅から来て、古波蔵駅で降りて学校に通ってたよ。
―因みに運賃っていくらくらいなんですか?
仲村渠さん:那覇駅から古波蔵駅の間は2銭だった。
―2銭…今の感覚だとどれくらいなんでしょう。
仲村渠さん:1銭でクロアミグヮー7個くらいだね(笑)。一中、二中の学生達はエリート、エーキンチュ(お金持ち)さ。自分たちは普段乗ることなかったけど、夜にこっそり飛び乗ったりしたよ。
―危なくないですか!?
仲村渠さん:駅に近づく時に減速するからその時にやるわけさ。鉄道は嘉手納までつながってて、サトウキビを積んで嘉手納の製糖工場まで運んでたよ。
―古波蔵のサトウキビも嘉手納の製糖工場に運んだんですか?
仲村渠さん:いや。古波蔵の西と東にそれぞれ「イリヌサーターヤー(西の砂糖小屋)」「アガリヌサーターヤー(東の砂糖小屋)」があって、そこでサーター作ってた。15~20名くらいのモアイ(模合)で、イイマール※11さ。樽※12 3つ4つ分くらい作って那覇の市場に持って行って、そこから内地に運ばれる。今の旭橋の琉銀本店の辺りが砂糖市場だったよ。あの頃、まとまったお金が入るのは砂糖くらいだった。
※11 イイマール
ユイマールとも。現在では「助け合い」と訳されているのをよく耳にする。もともと沖縄では労働交換を「イイ(結)」「イイマールー(結を回す)」「イイセー」等と言った。例えば家の建築を共同作業(結[ゆい])でおこなう場合は「茅模合(かやむえー)」「家葺模合(やーふちむえー)」。
※12 樽
豊見城市史(第2巻民俗編)によると、1樽あたり黒糖120斤(72kg)だったそうなので、樽もそれなりの大きさだったことが想像できる。明治以降、開墾や木材需要の増大による山林の乱伐で木材が不足していた沖縄。日々の煮炊きに必要な薪にさえ事欠く中で、製糖のための薪や黒糖を入れる樽を必要とする砂糖生産は、貴重な収入源であったと同時に暮らしを圧迫する要因の一つでもあったのかもしれない。
現在の壺川東公園に残る軽便鉄道跡。壺川東公園はかつての那覇駅と古波蔵駅の間に位置し、線路は公園の工事中に出土したもので、当時鉄道が走っていた場所とほぼ同じ位置に設置されているそう。また車両は、南大東島で実際にサトウキビ運搬用として活躍していたディーゼル機関車。静かな住宅街の中の公園で、今にも列車の走る音が聞こえてきそう。
―その頃の古波蔵にはどのくらい人が住んでいたんでしょうか。
仲村渠さん:本部落は…40世帯くらいかな。神社※13の辺りにハルヤー(畑小屋)が15軒くらい。古波蔵駅があった辺り(壺川との境)はアタカー※14と言って、そこも古波蔵の人が住んでいたよ。アカバタキー※14にはチーチーヤー(牛乳屋)※15があった。
―へぇ。その頃には牛乳屋があったんですね。牛乳飲むようになったのってなんとなく戦後からかと思っていました。普段の食事はどんな感じだったんですか?やっぱり豆腐はよく食べていたんですか?
仲村渠さん:大体ンースナバー(フダンソウ)のおつゆと芋。豆腐は売る用だから、食べるのは鍋についたナンチチ(こげ)。あの頃はみんなお金ないから。でもそれが普通だったんだよ。
※13 神社
行田谷原(ユクタヤバル)産土神社のこと。古波蔵1丁目の太物製菓さんの隣にある。行田谷原はこの辺りのハルナー(原名)で、戦前この一帯は畑地が広がっていた。この神社がいつ頃からあって、どんな由来があるのか…詳しいことはわからなかった。
※14 アタカー(阿手川)、アカバタキー(赤畑)
いずれも壺川の辺りの古い地名で、字壺川を二分するように通る現在の330号線を境に、陸側がアタカーバル(阿手川原)、漫湖側がアカバタキバル(赤畑原)。アカバタキーは現在の那覇大橋東交差点の辺りにあった小丘の名で、古い絵図では漫湖につき出るようにしてある小丘の上に松の木が生えている様子が描かれている。アタカーは黒潮会館近くにアタカーガー(井戸)がひっそりと残っているほか、現在のハーバービューホテル近くにある「阿手川(あてがわ)公園」(※住所は那覇市泉崎)にその名を見ることができる。
※15 チーチーヤー
牛乳屋のこと。那覇に初めて牛乳屋ができたのは明治22~23年(1889-1890)頃。それから10年程で那覇や首里では牛乳を飲む人も増え、牛乳屋も各地にできたそう。その当時は食料というよりも薬として扱われ、病人に飲ませることが多かったのだとか。仲村渠さんの記憶では、チーチーヤーでは瓶入りの牛乳が売られていたそうなので、ガラス瓶の工場も近くにあったのだろうか?
仲村渠さんいわく「豆腐作りは母、売るのは娘」の仕事だったそう。戦前は東町の市場で、戦後は農連で売っていたのだとか。写真の豆腐は「古波蔵ウシジャー」ではないが、今も古波蔵にある豆腐屋さんのおいしいお豆腐。
仲村渠さん:あの頃はみんな靴も履かないで裸足だったよ。でも昭和16年(1941)頃かな、当時の県知事が「裸足禁止令」※16出して、それから草履履くようになったね。
―どんな草履だったんですか?これも各家庭で作っていたんでしょうか。
仲村渠さん:アダンの葉でできた草履。真玉橋の辺りに崎山さんという人が住んでいて、その人が作ってたよ。こういう物は誰でも作れるわけじゃない。あの頃はアダンが周りにいっぱいあった。アーマン(オカヤドカリ)がアダンの実をよく食べてたよ。お盆の時もアダンの実を供えていた。
―今はパイナップルにかわってますね。昔は身近な植物を生活の中で利用していたんですね。
仲村渠さん:あと竹も。古波蔵はどこの家も屋敷の囲いにシマダケ※17を植えてた。もともと湧水が豊富で、屋敷周りには溝が掘られていて、ホタルもよく飛んでたよ。うっそうと茂っていて、雨が降ると重さで屋敷に覆いかぶさってきて暗くなるくらいだったよ。でも、台風が来ても倒れたりすることはあまりなかったけどね。竹はタムン(薪)の代わりにも使っていたし、釣り竿にも使った。
―竹を屋敷周りに植えたというのは初めて聞きました。古波蔵独自の風習だったんでしょうか。
仲村渠さん:与儀の方でも同じように屋敷周りに竹植えてたよ。でも確かに、この辺では古波蔵と与儀以外にそういうの見なかったね。壺屋の人達がこの竹を買いに来ることもあったよ。(家の屋根に使う)カヤをくびる用にね。
※16 裸足禁止令
正しくは「裸足取締規則」で、那覇市内を裸足で歩くことを禁じたもの。違反者には罰金も科せられたとか。戦時の衛生思想向上の方針に基づいて行われたものらしいが、あくまで「那覇市内」限定だったからか、当時を知るおばーたちからは「那覇に行く時はゾーリをフチュクルグヮー(ふところ)に入れて(はだしで歩いて)行ったさ~」なんて話を聞いたりする。
※17 シマダケ
おそらく「ホウライチク」のことだと思われる。読谷村の古堅地区でも戦前は屋敷の囲いにホウライチクが植えられ、その竹のことを地元では「シマダケ」と呼んでいたそう。
お話をもとに作成した地図 (※地図は国土地理院の空中写真[1945年12月10日米軍撮影]を加工して引用)点線で囲まれた範囲が畑地を含めた古波蔵地域。古波蔵集落がある場所は兼久原(かねくばる)といって、「兼久」とは砂地を意味する語とされる。実際、以前ボーリング調査をした際に砂が出たのだとか。
● 聞き取りを終えて ●
今回出てきたたくさんの漫湖の生きものたちの名前、実は調べるのに結構苦労しました。どんなに近い場所でも地域が違うだけで呼び名が違っていたり、クルマジェーやアカンミーガニのように、今の漫湖では見かけない生きものも出てきたり…。でもそれは沖縄の言語文化の豊かさの証左でもあり、とても興味深く感じました。また、今の漫湖では確認されていない生物について知ることができたことも、地図情報だけでは分からない、漫湖の環境変化を裏付ける貴重な記録です。
今回の聞き取りには仲村渠さんのご家族と、生物の種の特定については写真のご提供も含め専門家の先生方のご協力を頂きました。この場を借りて感謝申し上げます。本当に有難うございました。
長年、体一つでお仕事をされてきた仲村渠さん。お話しのあと「ありがとうございました」と握ったその手は、皮膚が厚くてしっかりと太い指の、とても素朴で温かい手でした。今の時代を生きる私たちの暮らしは、こうした一つ一つの手でつくられたものの上にあります。過去から現在へと至る人々の日々の営み、それを取り巻く自然環境、そうしたものに生かされて今の自分があること。それをいつも忘れずにいたいものですね。
仲村渠さん、貴重なお話を有難うございました!
体を動かすのが好きだという仲村渠さん。今も毎朝のウォーキングと畑仕事、週2で地域の小中学校の美化活動に日々と忙しい。 写真は古波蔵のウブガー(産井戸)の前で。
★★★この聞き書きシリーズは、「記憶さんぽ」という記事としても発行しています。センターのほか、真玉橋公民館、那覇市地域包括支援センター古波蔵、国場自治会、豊見城市中央公民館、小禄南公民館、小禄自治会の計7カ所に置いていますよ。是非お手に取ってみてくださいね!★★★
※今回の記事をまとめるにあたり、下記資料等を参考にさせて頂きました。
〈書籍・論文・冊子〉
税所敏郎・牛尾嘉宏「南西諸島における有毒ガニの分布と生態に関する研究」『鹿児島大学水産学部紀要 第18巻』(1969)
新屋敷幸繁『沖縄県史物語』(1977)
那覇市『那覇市史 資料篇第2巻中の7』(1979)
那覇市『写真集 那覇百年のあゆみ:激動の記録・琉球処分から交通方法変更まで』(1980)
沖縄タイムス社『沖縄大百科事典』(1983)
那覇市『那覇市歴史地図—文化遺産悉皆調査報告書—』(1986)
琉球新報社『最新版 沖縄コンパクト事典』(2003)
豊見城村『豊見城村史 第6巻戦争編』(2001)
豊見城市『豊見城市史 第2巻民俗編』(2008)
新城俊昭『教養講座 琉球・沖縄史』(2014)
盛口満・当山昌直「読谷村・古堅の動植物利用」『沖縄大学人文学部紀要 第23号』(2020)
那覇市歴史博物館『企画展 那覇の市場~シシマチ(肉市)、イユマチ(魚市)、ナーファヌマチ(那覇市)~』(2019)
〈WEBサイト〉
読谷村史編集室 読谷村しまくとぅば単語帳
広報 北中城 470号「みんなの広場」
前回に引き続き、長年、古波蔵にお住まいの仲村渠善照さんのお話しです。
戦前から戦後にかけて、人々の暮らしや風景はどのように変わっていったのか。そして戦前の漫湖にはどんな生きものたちがすんでいたのでしょうか?たくさんの思い出と共に語って頂きました。
● 戦争が終わって… ●
―戦争が終わった後はどうされていたんですか?
仲村渠さん:米須、嘉数と移って、古波蔵に戻ったのは…1947年頃だったかな。その頃はこの辺で軍作業していたよ。PWってわかる?捕虜になった日本兵は一般の人とは別にされて、この人たちも那覇軍港で作業していたよ。奥武山にキャンプ(収容所)があってね。
写真「収容所へ裸で行進させられている日本兵捕虜」(那覇市歴史博物館 所蔵)
PWとは戦争捕虜(Prisoners of War)の略称だが、軍人軍属の捕虜のことを指す。難民として扱われた一般住民の捕虜(Civilian)とは区別され、移送経路や収容先も分けられていた。沖縄戦で米軍に投降したり傷ついて捕虜となった日本軍兵士は1万人を超えるとされる。PWは有刺鉄線で囲った収容所やテント小屋等に収容され、中にはハワイなど海外の収容所に送られた人々もいた。―戦争が終わって古波蔵に戻ってくるまで2年かかったんですね。
仲村渠さん:それでも那覇から壺川の辺りまではまだ米軍が使っていたよ。あそこはハーバービュークラブもあったから。嘉数にいた時はものがなくてとにかく大変だった。配給もない。米須はそれでもまだ湧水があったけど。豊見城城址が米軍のゴミ捨て場になってたから、そこで残飯とってきて、モビール天ぷら※1して。トウモロコシの粉とかメリケン粉で、臭い消しにミカンの葉をいれるわけ。真玉橋の東にも収容所があったよ。テント小屋がいっぱい並んでて、MP屋※2もあった。これは見張り小屋みたいなもので、脱走者見つけたら撃つわけさ。自分がコザにいた時もこれで5人やられた。夜になるとこのMPが(村に)来よったよ。女の人探して。
―ここでもそういう事があったんですね…。
※1 モビール天ぷら
あるいはモービル天ぷら。機械用の油圧油(モビール油[アンダ])で揚げた天ぷらのこと。終戦直後の物がなかった頃の沖縄で食べられた。これを食べると食後に黒い油が口に残り、下痢になる人も多かったとか。(※健康を害する恐れもあるので、絶対にマネしないでください!)
※2 MP
憲兵(Military Police)のこと。米軍内の軍人・軍属による事件や事故の取り締まりといった警察活動が本来の役割だが、米軍統治下の沖縄では民間地域での警察活動やデモの取り締まり等も行った。基地外での米軍人による犯罪の取扱いについても絶対的権限を持ち、住民が被害者である事件でも民間警察の介入を許さず、被害者が泣き寝入りせざるを得ないといったことも多かった。沖縄における米軍支配の象徴ともいえる存在。
写真「工作隊のコンセット兵舎」(那覇市歴史博物館 所蔵)
―仲村渠さんは軍作業でどんなお仕事をされていたんですか?
仲村渠さん:色々やったよ。軍桟橋でフォーク作業していた時もあった。ポストエンジニア(米軍のエンジニア部署)が沖縄の道路つくっていたからその仕事もしたよ。アスファルトの代わりにガジャンビラの岩をクラッシャーで砕いて、イシグー道※3つくってね。軍作業しながらアタイグヮー(家庭菜園)もやっていた。日曜は楚辺と古波蔵の間を8往復くらいして、肥料(人糞)を運んだりもしていた。休む日はなかったよ。軍作業していたのは1967年頃までだったかな。ベトナム戦争で軍より民間の給料の方がよくなっていったから、軍作業辞めてからは建築屋していた。家畜検疫所で働いたこともあったよ。
―どんなお仕事ですか?
仲村渠さん:牛にヤギにレグホーン(採卵鶏)に…色々世話してたよ。増やして各村に配る用にね。
※3 イシグー道
イシグー(石粉)とは琉球石灰岩が細かく砕かれ砂利状になったもののこと。かつて首里城の綾門大道(アイジョーウフミチ:守礼門と現在はない中山門の間の大通り)や、識名園の本門から育徳泉へと続く石畳道などは、イシグーで舗装された道だったことが知られている。かつては集落内など各地にもイシグー道があったそうだが、今ではほとんど残っていないと思われる。
● 戦前の古波蔵 ●
―戦前の古波蔵はどんな暮らしだったんですか?サトウキビやイモを作ってたとのことでしたが。
仲村渠さん:昔は周りみんな畑。だから鶏の放し飼いは罰金とられよったよ。国場とか小禄では、那覇※4から人糞買って堆肥にしていたけど、堆肥は牛糞を使ってた。古波蔵は畑も小さいし、舟もなかったからね。
―何か運ぶ時とかどうしてたんですか?
仲村渠さん:オーラー(もっこ)使ったり。みんな自分で歩いて。バーキ(ざる)売りに東町まで行きよったよ。馬車で荷運びの仕事している家も7軒くらいあった。馬車の道具を作る人が壺川にいて。
―なるほど。仲村渠さんの家は何か飼っていたんですか?
仲村渠さん:うちは馬とかヤギ飼っていて、学校終わったらエサにやる草を刈ってくるのが仕事だった。豚もいたよ。
―ウヮーフルってどこの家もあったんでしょうか?今も残っているような石造りのものはお金持ちの家にしかなかったと聞いたことがあるんですが。
仲村渠さん:あんな上等じゃないけどあったよ。墓とウヮーフルはいつもきれいにしてた。
※4 那覇
ここでいう「那覇」とは現在の西町・東町・若狭・泉崎の辺りのこと。かつては「那覇四町(なはゆまち)」とも呼ばれ、ここに役所なども設置されていた。1954年に旧首里市と旧小禄村が、1957年に旧真和志市が編入される等して現在の那覇市になった。
ウヮーフルとは豚の飼育小屋を兼ねた便所のこと。「ウヮー」は豚、「フール」は風呂の意味。衛生上問題があるとして大正5~6年(1916-1917)以降は新規のウヮーフル設置が禁止された。写真のウヮーフルは、那覇市の田原公園の一角に残る南前下庫理(フェーメーシチャグイ)家のもの。石積みのかなり凝った造りで、明治の終わりから大正の初め頃にかけて作られたとされる。
仲村渠さん:家畜のエサ用の草取りは古蔵小の辺りから国場まで行くこともあったよ。
―国場まで?その辺の草じゃ駄目だったんですか?
仲村渠さん:なかったんだよ。今と違ってあの頃はガスないさ。タムン(薪)はヤンバルから船で運んでくるから高くてわずかしか買えない。正月用に、5束くらい。だからみんなあちこちから枝とか葉っぱとか燃やせるもの集めて(煮炊きに)使って。今はアガリヌモーにも木がたくさん生えているけど、あの頃はもうとりつくされて、上の方はカヤ場だった。ヒラマーチーは残っているけど。ヒラマーチーわかる?大きい立派な松の木だよ。こう、横に広がって。母は奥武山まで松の葉をとりに行く時もあったよ。サトウキビの枯葉も火焚き用に使ってたね。
―因みに火ってどうやって点けてたんですか?
仲村渠さん:マッチ使ってたけど、戦争になるとどんどんものがなくなっていって(マッチもなくなった)。火が消えた後の炭に灰をかけておいて、またそれで火つけるわけさ。熱が残っているから。石油もなくなって、牛の脂をランプに使ったりしたよ。
樹齢およそ200年とされる古波蔵の「ヒラマーチー」。松の木は葉やまつぼっくりもよく燃え有用だったこともあり、戦時の木材需要の高まりで多くの木が切られていく中でも、切らずに大切にされていたのだとか。激しい戦禍を生き延びたヒラマーチーは、今も古波蔵の人々を見守っている。
● 漫湖の生きものたち ●
―古波蔵の人達は漫湖で漁等はしていましたか?
仲村渠さん:古波蔵はみんな畑が忙しくて、海(漫湖)にはあんまり行かなかった。行くのはスーマンボース(小満芒種:梅雨)の時。雨で畑ができない、収穫した大豆も干せないような時くらい。近所のおじーがガザミ獲っていたよ。大潮の時はウナギもいっぱい入ってきよった。
―ウナギも獲ってたんですか?
仲村渠さん:あれは骨が多くて処理するの難儀だから、あんまりとって食べることはしなかった。小学生の頃はよく海で遊んだ。中学生なんかは真玉橋から飛び込みして遊んでたよ。あの頃は今と違って娯楽が少ないから、昔の青年たちはアシビナーで角力※5とったりしてね。ウフヤー(大家)近くのアシビナーには岩が3つあって、これで力比べしていた。大中小とあって、これを持ち上げるわけ。あとは、岸の方に“シーグヮー”って岩が2つあった。青年たちは夜そこに集まって遊んでたよ。
―仲村渠さんも?
仲村渠さん:いや、自分はまだ小さかったから(参加したことはなかった)。
―今は影も形もないけれど、シーグヮーはどこにいったんだろう…。
※5 角力(すもう)
沖縄や奄美で行われてきた伝統的な「沖縄角力」は、ルールや技など本土の大相撲とは異なる。裸に廻しではなく角力着を着て、両手で相手の帯をつかみ、右四つに組んだ状態から勝負が始まる。戦前は常設の土俵もなく、広さや型にも規格がなかった。若者や子どもたちの遊びとしてだけでなく、奉納行事として行われるなど、地域の年中行事と深く結びついたものだった。那覇市牧志で毎年行われる「牧志ウガン奉納角力大会」が有名。
この辺りに「シーグヮー」と呼ばれた2つの岩があった。浜が埋め立てられ道や建物ができた今は、想像するのもなかなか難しい。
―漫湖にはどんな生きものがいたんでしょうか。
仲村渠さん:アファケー(オキシジミ)がいっぱいいたよ。戦後は農連に売りに行ったりもした。ガーナームイの周りはクチャンマという細長い貝がいて。あの辺はクチャで泥が少し硬かったから、つるはしで掘って獲ったよ。あれは瀬長島にもいた。
―あ!前に別の方からも聞いたことがあります。小禄地域ではアファケーを「アンチャン」、細長い貝(クチャンマ)のことは「クチャアンチャン」と呼んでいたとか。多分同じ貝のことですよね。(※アンチャンについては「昔の漫湖 聞き書き その1後編」参照)
仲村渠さん:浅い所にはチンボーラー(巻貝)がいて、夏の潮がひいた時に獲ってた。これで小遣い稼ぎもしたよ。バーキに入れて、1~2銭くらいで売るわけ。南風原から那覇の市場に野菜売りに来る人達が、帰りに買っていったよ。ガーラとかクチミジャー※6、クークーグヮー※7、チン(ミナミクロダイ)もいた。これ釣って食べるのが子どもの遊びだったよ。着物から糸とって、屋敷周りの竹で釣竿作って。夏になると10cmくらいのセーグヮー(エビ)もいっぱいいた。古くて使わなくなったカチャ(蚊帳)を網にして竹でカゴ作って、炊いた芋を中に入れて獲るわけさ。これも獲って食べてたね。
―獲るための道具も全部身の回りの物を利用していたんですね。
仲村渠さん:そうだね。泥の中にいるクルマジェー(フトミゾエビ)というのもいた。20~30cmくらいの、テナガエビよりも大きいエビ。これは5~6月頃、雨降り続きで畑できない時とかに国場の女の人達が獲って、東町に売りに行きよったよ。ミナトグヮー※8って1mくらいのサメもいた。これは今でも時々いるよね。大潮の時に真玉橋の所で良く見たよ。橋から釣るわけさ。
―サメ釣ってたんですか⁈危ないのでは…。
仲村渠さん:あれは歯がないから大丈夫。天ぷらにして、美味しかったよ。
※6 ガーラ、クチミジャー
ガーラはロウニンアジやオニヒラアジ、ギンガメアジ等のアジの総称で、クチミジャーはその幼魚のこと。クチミチャーとも。
※7 クークーグヮー
シマヒイラギやセイタカヒイラギのこと。ヒイラギ科の魚は釣ると「グーグー」とか「ギーギー」と鳴き声のような音を出すので、このような呼び名が付いたと思われる。体の表面がよだれのようにぬるぬるしているので「ユダヤガーラ」とも呼ばれる。
※8 ミナトグヮー
川にまで入ってくるサメなので、おそらくオオメジロザメのことだと思われる。オオメジロザメはサメの中で唯一淡水でも生息することができる珍しい種で、現在の漫湖でも時々見られることがある。漫湖で見かけるのは基本的にこども(幼魚)なので、“大人のサメに比べれば” 歯がない、ということだろう。現在は絶滅危惧種に指定されている。
「クルマジェー(フトミゾエビ)」(写真提供:前田健氏)
「クルマジェー」はフトミゾエビ(クルマエビ科)のことで、沖縄では「シルセー」とも呼ばれる。浅い海の砂(泥)底に生息する。 現在の漫湖では見られないので、当時は今よりもっと海に近い環境だったのかもしれない。(※写真のクルマジェーは恩納村産)仲村渠さん:昔は漫湖のところどころに、カキ殻みたいなのが堆積してできた、小さい島みたいなのがあったけどね。何の貝かはわからんけど。この島にアカンミーガニ(イワオウギガニ)がいた。これは穴の中にいるからクワで獲る。お年寄り達が(雨等で)畑いけない日に獲ってたよ。
―そうなんですか?ずっと昔の、もっと海に近い感じだった頃の名残だったんでしょうか…。
「アカンミーガニ(イワオウギガニ)」(写真提供:鹿谷法一氏)
仲村渠さん:アタビー(カエル)もいっぱいいた。あれはシンジムン(煎じ物)にしたよ。桑の木に入ってる虫がいるんだけど、10cmくらいの、あれと一緒にシンジ(煎じ)て。ターイユ(フナ)もシンジて飲ましてたよ。ターイユはクムイ(池)にいた。水がよく出るところに掘って作ったクムイがあったから。
―虫もシンジムンにしたというのは初めて聞きました。何の虫だろう…。
仲村渠さん:田んぼにはクミラー(バン)がいたよ。豊見城城址近くの、今の那覇鋼材の所にあったウィー※9の田んぼで巣作ってて、探して卵とって食べてた。美味しかったよ。この頃はマングローブなくて、この辺はユウナ(オオハマボウ)とかヨシ、あと今の古波蔵のかねひでの辺りにあった田んぼにはガマみたいなのが生えてた。冬になるとカモがいっぱい来てた。10月頃にはタカ※10もいたよ。松の木にいっぱいいて、木の高い所にいるから簡単には捕れないけど、嘉数の人達は夜に捕まえて市場で売っていた。これはタカジューシーにするわけさ。結構高く売れていたよ。メジロも捕まえたね。ヤンムチ(トリモチ)で。竹ひごでカゴ作って、鳴き声勝負させるわけ。イモとか竹の中の虫をエサであげてね。
―ヤンムチは何で作ってたんですか?
仲村渠さん:ガジュマルの樹液で作るんだよ。市場なんかでも売っていたけどね。
※9 ウィー(ヰー)
琉球藺(リュウキュウイ:別名七島藺)のこと。丈夫な素材で、ムシロやゴザ、柔道用の畳など広く利用されていたほか、船の帆としても用いられていたのだとか。沖縄では1960年代まで栽培がおこなわれていたが、合成繊維の台頭でほとんど栽培されなくなった。
(※ウィーについては「昔の漫湖 聞き書き その1後編」も参照)
※10 タカ
ここでいうタカとはサシバ(タカ科)のこと。秋に大きな群れで南へ渡っていくことで知られ、特に宮古諸島では大規模な渡りを見られることで有名。残念ながら現在は絶滅危惧種に指定されており、捕獲も禁止されている。豊見城の嘉数バンタの西側には「タカトゥイモー(鷹取り毛)」と呼ばれる丘陵がある。ここで嘉数の人々はサシバを捕まえていたのだろうか。
写真「真玉橋」(1964年頃 豊島貞夫さん撮影)
大人も子供もたくさんの人々が釣りをしている。昭和40年代頃までは水もきれいで、潮が入ってくる時間帯は泳げたのだとか。● 日々の暮らしの思い出 ●
―古波蔵は豆腐作りで有名だったとよく聞きますが、仲村渠さんのおうちでも作ってたんですか?
仲村渠さん:昔はみんな自分の家で豆腐作りよったよ。各家庭にシンメーナービ(四枚鍋)あったから。漫湖でくんだ海水で。「古波蔵ウシジャー」ってわかる?丸くて大きい、古波蔵の伝統の豆腐。あれが有名だった。
―初めて聞きました。大豆も自分たちで作っていたんですか?
仲村渠さん:大豆も作りよったよ。サトウキビの後に植えるわけ。でも足りないから、東町でも買っていた。戦前、あそこには色んな市場があって。豆の市場、肉の市場、黒糖の市場…。東町の奥の方(西本町)には映画館もあったよ。「平和館」と「旭館」って、2つ。バスターミナルの方にはユーフルヤー(銭湯)もあった。
―へぇ~。仲村渠さんもそこのユーフルヤーに行ったんですか?行って帰ってくる間にまた汗かきそうな距離ですね(笑)
仲村渠さん:だからね(笑)。移転前のJAがあったところ、あそこは昔ヤチムンヤー(焼物工場)で、壺とかヒューム管とか作っていたよ。先輩たちはあそこで粘土運びのバイトもしてた。バーキ2つ担いで1回いくらで。50銭くらい稼いだんじゃないかな。近くにアルコール工場があって、その間を往復してね。あそこは糖蜜で工業用アルコールと酒を作っていた。アルコール工場は小禄にもあったよ。ペリーもち屋の裏手の辺り。
写真「東町しじょう」(那覇市歴史博物館 所蔵)
仲村渠さん:バスターミナルのとこは鉄道の駅だった。那覇駅。古波蔵駅もあって、一中、二中の学生たちは与那原駅から来て、古波蔵駅で降りて学校に通ってたよ。
―因みに運賃っていくらくらいなんですか?
仲村渠さん:那覇駅から古波蔵駅の間は2銭だった。
―2銭…今の感覚だとどれくらいなんでしょう。
仲村渠さん:1銭でクロアミグヮー7個くらいだね(笑)。一中、二中の学生達はエリート、エーキンチュ(お金持ち)さ。自分たちは普段乗ることなかったけど、夜にこっそり飛び乗ったりしたよ。
―危なくないですか!?
仲村渠さん:駅に近づく時に減速するからその時にやるわけさ。鉄道は嘉手納までつながってて、サトウキビを積んで嘉手納の製糖工場まで運んでたよ。
―古波蔵のサトウキビも嘉手納の製糖工場に運んだんですか?
仲村渠さん:いや。古波蔵の西と東にそれぞれ「イリヌサーターヤー(西の砂糖小屋)」「アガリヌサーターヤー(東の砂糖小屋)」があって、そこでサーター作ってた。15~20名くらいのモアイ(模合)で、イイマール※11さ。樽※12 3つ4つ分くらい作って那覇の市場に持って行って、そこから内地に運ばれる。今の旭橋の琉銀本店の辺りが砂糖市場だったよ。あの頃、まとまったお金が入るのは砂糖くらいだった。
※11 イイマール
ユイマールとも。現在では「助け合い」と訳されているのをよく耳にする。もともと沖縄では労働交換を「イイ(結)」「イイマールー(結を回す)」「イイセー」等と言った。例えば家の建築を共同作業(結[ゆい])でおこなう場合は「茅模合(かやむえー)」「家葺模合(やーふちむえー)」。
※12 樽
豊見城市史(第2巻民俗編)によると、1樽あたり黒糖120斤(72kg)だったそうなので、樽もそれなりの大きさだったことが想像できる。明治以降、開墾や木材需要の増大による山林の乱伐で木材が不足していた沖縄。日々の煮炊きに必要な薪にさえ事欠く中で、製糖のための薪や黒糖を入れる樽を必要とする砂糖生産は、貴重な収入源であったと同時に暮らしを圧迫する要因の一つでもあったのかもしれない。
現在の壺川東公園に残る軽便鉄道跡。壺川東公園はかつての那覇駅と古波蔵駅の間に位置し、線路は公園の工事中に出土したもので、当時鉄道が走っていた場所とほぼ同じ位置に設置されているそう。また車両は、南大東島で実際にサトウキビ運搬用として活躍していたディーゼル機関車。静かな住宅街の中の公園で、今にも列車の走る音が聞こえてきそう。
昔ながらのクロアミグヮー(黒糖飴)。現在お店で売られているのは紡錘形タイプが一般的で、昔のものとは形が異なる。
―その頃の古波蔵にはどのくらい人が住んでいたんでしょうか。
仲村渠さん:本部落は…40世帯くらいかな。神社※13の辺りにハルヤー(畑小屋)が15軒くらい。古波蔵駅があった辺り(壺川との境)はアタカー※14と言って、そこも古波蔵の人が住んでいたよ。アカバタキー※14にはチーチーヤー(牛乳屋)※15があった。
―へぇ。その頃には牛乳屋があったんですね。牛乳飲むようになったのってなんとなく戦後からかと思っていました。普段の食事はどんな感じだったんですか?やっぱり豆腐はよく食べていたんですか?
仲村渠さん:大体ンースナバー(フダンソウ)のおつゆと芋。豆腐は売る用だから、食べるのは鍋についたナンチチ(こげ)。あの頃はみんなお金ないから。でもそれが普通だったんだよ。
※13 神社
行田谷原(ユクタヤバル)産土神社のこと。古波蔵1丁目の太物製菓さんの隣にある。行田谷原はこの辺りのハルナー(原名)で、戦前この一帯は畑地が広がっていた。この神社がいつ頃からあって、どんな由来があるのか…詳しいことはわからなかった。
※14 アタカー(阿手川)、アカバタキー(赤畑)
いずれも壺川の辺りの古い地名で、字壺川を二分するように通る現在の330号線を境に、陸側がアタカーバル(阿手川原)、漫湖側がアカバタキバル(赤畑原)。アカバタキーは現在の那覇大橋東交差点の辺りにあった小丘の名で、古い絵図では漫湖につき出るようにしてある小丘の上に松の木が生えている様子が描かれている。アタカーは黒潮会館近くにアタカーガー(井戸)がひっそりと残っているほか、現在のハーバービューホテル近くにある「阿手川(あてがわ)公園」(※住所は那覇市泉崎)にその名を見ることができる。
※15 チーチーヤー
牛乳屋のこと。那覇に初めて牛乳屋ができたのは明治22~23年(1889-1890)頃。それから10年程で那覇や首里では牛乳を飲む人も増え、牛乳屋も各地にできたそう。その当時は食料というよりも薬として扱われ、病人に飲ませることが多かったのだとか。仲村渠さんの記憶では、チーチーヤーでは瓶入りの牛乳が売られていたそうなので、ガラス瓶の工場も近くにあったのだろうか?
仲村渠さんいわく「豆腐作りは母、売るのは娘」の仕事だったそう。戦前は東町の市場で、戦後は農連で売っていたのだとか。写真の豆腐は「古波蔵ウシジャー」ではないが、今も古波蔵にある豆腐屋さんのおいしいお豆腐。
仲村渠さん:あの頃はみんな靴も履かないで裸足だったよ。でも昭和16年(1941)頃かな、当時の県知事が「裸足禁止令」※16出して、それから草履履くようになったね。
―どんな草履だったんですか?これも各家庭で作っていたんでしょうか。
仲村渠さん:アダンの葉でできた草履。真玉橋の辺りに崎山さんという人が住んでいて、その人が作ってたよ。こういう物は誰でも作れるわけじゃない。あの頃はアダンが周りにいっぱいあった。アーマン(オカヤドカリ)がアダンの実をよく食べてたよ。お盆の時もアダンの実を供えていた。
―今はパイナップルにかわってますね。昔は身近な植物を生活の中で利用していたんですね。
仲村渠さん:あと竹も。古波蔵はどこの家も屋敷の囲いにシマダケ※17を植えてた。もともと湧水が豊富で、屋敷周りには溝が掘られていて、ホタルもよく飛んでたよ。うっそうと茂っていて、雨が降ると重さで屋敷に覆いかぶさってきて暗くなるくらいだったよ。でも、台風が来ても倒れたりすることはあまりなかったけどね。竹はタムン(薪)の代わりにも使っていたし、釣り竿にも使った。
―竹を屋敷周りに植えたというのは初めて聞きました。古波蔵独自の風習だったんでしょうか。
仲村渠さん:与儀の方でも同じように屋敷周りに竹植えてたよ。でも確かに、この辺では古波蔵と与儀以外にそういうの見なかったね。壺屋の人達がこの竹を買いに来ることもあったよ。(家の屋根に使う)カヤをくびる用にね。
※16 裸足禁止令
正しくは「裸足取締規則」で、那覇市内を裸足で歩くことを禁じたもの。違反者には罰金も科せられたとか。戦時の衛生思想向上の方針に基づいて行われたものらしいが、あくまで「那覇市内」限定だったからか、当時を知るおばーたちからは「那覇に行く時はゾーリをフチュクルグヮー(ふところ)に入れて(はだしで歩いて)行ったさ~」なんて話を聞いたりする。
※17 シマダケ
おそらく「ホウライチク」のことだと思われる。読谷村の古堅地区でも戦前は屋敷の囲いにホウライチクが植えられ、その竹のことを地元では「シマダケ」と呼んでいたそう。
お話をもとに作成した地図 (※地図は国土地理院の空中写真[1945年12月10日米軍撮影]を加工して引用)
● 聞き取りを終えて ●
今回出てきたたくさんの漫湖の生きものたちの名前、実は調べるのに結構苦労しました。どんなに近い場所でも地域が違うだけで呼び名が違っていたり、クルマジェーやアカンミーガニのように、今の漫湖では見かけない生きものも出てきたり…。でもそれは沖縄の言語文化の豊かさの証左でもあり、とても興味深く感じました。また、今の漫湖では確認されていない生物について知ることができたことも、地図情報だけでは分からない、漫湖の環境変化を裏付ける貴重な記録です。
今回の聞き取りには仲村渠さんのご家族と、生物の種の特定については写真のご提供も含め専門家の先生方のご協力を頂きました。この場を借りて感謝申し上げます。本当に有難うございました。
長年、体一つでお仕事をされてきた仲村渠さん。お話しのあと「ありがとうございました」と握ったその手は、皮膚が厚くてしっかりと太い指の、とても素朴で温かい手でした。今の時代を生きる私たちの暮らしは、こうした一つ一つの手でつくられたものの上にあります。過去から現在へと至る人々の日々の営み、それを取り巻く自然環境、そうしたものに生かされて今の自分があること。それをいつも忘れずにいたいものですね。
仲村渠さん、貴重なお話を有難うございました!
体を動かすのが好きだという仲村渠さん。今も毎朝のウォーキングと畑仕事、週2で地域の小中学校の美化活動に日々と忙しい。 写真は古波蔵のウブガー(産井戸)の前で。
★★★この聞き書きシリーズは、「記憶さんぽ」という記事としても発行しています。センターのほか、真玉橋公民館、那覇市地域包括支援センター古波蔵、国場自治会、豊見城市中央公民館、小禄南公民館、小禄自治会の計7カ所に置いていますよ。是非お手に取ってみてくださいね!★★★
※今回の記事をまとめるにあたり、下記資料等を参考にさせて頂きました。
〈書籍・論文・冊子〉
税所敏郎・牛尾嘉宏「南西諸島における有毒ガニの分布と生態に関する研究」『鹿児島大学水産学部紀要 第18巻』(1969)
新屋敷幸繁『沖縄県史物語』(1977)
那覇市『那覇市史 資料篇第2巻中の7』(1979)
那覇市『写真集 那覇百年のあゆみ:激動の記録・琉球処分から交通方法変更まで』(1980)
沖縄タイムス社『沖縄大百科事典』(1983)
那覇市『那覇市歴史地図—文化遺産悉皆調査報告書—』(1986)
琉球新報社『最新版 沖縄コンパクト事典』(2003)
豊見城村『豊見城村史 第6巻戦争編』(2001)
豊見城市『豊見城市史 第2巻民俗編』(2008)
新城俊昭『教養講座 琉球・沖縄史』(2014)
盛口満・当山昌直「読谷村・古堅の動植物利用」『沖縄大学人文学部紀要 第23号』(2020)
那覇市歴史博物館『企画展 那覇の市場~シシマチ(肉市)、イユマチ(魚市)、ナーファヌマチ(那覇市)~』(2019)
〈WEBサイト〉
読谷村史編集室 読谷村しまくとぅば単語帳
広報 北中城 470号「みんなの広場」