漫湖日和3

ラムサール条約登録湿地「漫湖」について、生き物や歴史、センターの活動など紹介します。 ※ブログ内のすべての画像及び動画の無断転載・無断使用を禁止します。
旧ブログ→漫湖日和2 https://manko-mizudori.blog.ss-blog.jp/

昔の漫湖 聞き書き その4前編

昔の漫湖や周辺の様子について、地域の方に聞いたおはなし「聞き書き」シリーズ。
今回は、長年、古波蔵にお住まいの仲村渠善照さん(95)からお聞きしたお話を紹介します!
現在も現役で地域の小中学校のボランティア活動に参加されている仲村渠さん。
長年見つめてきた古波蔵地域の、戦前の暮らしと戦争の記憶を語って頂きました。

● 戦前の古波蔵 ●
―仲村渠さんは古波蔵のご出身と聞きました。
仲村渠さん:ずっと古波蔵だよ。いま古波蔵の公民館がある所はもともと御嶽(ウタキ)がある場所で、うちはこの近く。昔は周りみんな畑だったよ。古波蔵の御嶽はもともと城岳(グスクダケ)の方にあって、先祖のお墓もそこにあったけど、立ち退きで。(移転)前のJA会館後ろの高台、あそこに移したわけ。城岳小学校前に松並木の道があるでしょ。昔はあそこにクハングヮンマイー(古波蔵馬場)があって、ンマスーブ(馬勝負)していたよ。この辺の馬だけじゃなくて沖縄南部全体の大会もここでやってた。ンマスーブは馬の走る速さじゃなくて、歩く時の足並みのきれいさを競うんだよ。
―今の松並木は戦前からあるものなんでしょうか?それとも戦後のもの?
仲村渠さん:今あるのは戦後に植えたもの。戦前から生えていたものは切ってしまった。古波蔵馬場はもともと字古波蔵の土地だったんだけど、戦前、いつの間にか真和志村の所有になっていて、村が松の木を売ってしまった。入札者が松の木を切って、それで臼を作ったんだよ。エーキンチュ(お金持ち)の家には臼があった。あの頃、お米はご馳走だったから。
―私の祖父も同じことを言っていました。「お米はご馳走」って。それにしても松を切ってしまったなんて…見てみたかったです。

琉球ノ競馬
写真「琉球ノ競馬」[那覇坂元商店発行](那覇市歴史博物館 提供)
ンマスーブ(馬勝負)は沖縄の伝統的な民衆娯楽の一つで、琉球王国時代から戦前まで行われていた。農村地帯には大抵の部落にンマイー(馬場)があり、祝祭日やハルヤマスーブ(原山勝負:間切りごとに行われた農作物や家畜の品評会)の日に行われていた。写真は今帰仁村の仲原馬場(1917年頃)。

クハングヮンマイー(古波蔵馬場)跡
現在の那覇市立城岳小学校前にあるクハングヮンマイー(古波蔵馬場)跡。ここには大きなガジュマルの木もあり、その根元には馬のオブジェと解説板が設置されている。以下、解説板より一部抜粋。「この地は、かつて古波蔵馬場と呼ばれ、古波蔵村が近郷の国場村や与儀村と馬模合を組織して、月に一度、馬勝負(ンマスーブ)をしていた場所です。勝った馬は、島尻郡の大会や那覇の潟原(ガタバル)で年に一回行われた全県大会に出場していました。馬場(ンマウィー)は、幅10m前後、長さ200mほどで、両側には大人3人でもかかえきれないほど大きな松の並木があり、壮観だったそうです。勝負には宮古馬をつかい、早足(足組す/アシクマスン)で競っていました。」

仲村渠さん:向こう(センター対岸の古波蔵側)にあるムイグヮー(森)、あれが「アガリヌモー」。昔はもう少し高さがあったけど、戦後に上を削って建物を建てたりして、今みたいな感じになったんだよ。削られる前はあそこから首里まで見えた。10・10空襲※1の時は、あそこから那覇の港が爆撃されるのを見てたんだよ。アガリヌモーに壕を掘っていたから、そこに逃げる時に。戦後は、壕があったところは墓が作られたね。今の古蔵小学校の辺りも、戦前は日本軍の訓練場だったよ。熊本とかから来た兵隊達の。沖縄で徴兵された人もここで訓練受けてたはず。日本軍がいなくなった後に与儀小学校を建てたけど、結局米軍のガソリンタンクを作ることになって、今の場所に移ったわけ。
―なんというか、頭で理解はしてもなかなか想像できるものではないですね…。

※1 10・10空襲
昭和19年(1945)10月10日に始まった、南西諸島に対して行われた米軍の最初の大空襲のこと。奄美大島から石垣島にかけて攻撃が行われ、主要な攻撃目標であった沖縄本島の中でも、特に飛行場や港湾施設のある場所が狙われた。この空襲により那覇市の90%が焦土と化し、死者の数も全体の約半数を那覇市民が占めた。


アガリヌモー
とよみ大橋から古波蔵を臨む。手前に見える岸沿いの緑地が漫湖公園で、その後ろに見えるのが「アガリヌモー」。「アガリ」は東、「モー(毛)」は野原の意味。旧古波蔵集落の西側には「イリヌモー」(「イリ」は西の意味)もあったが、現在は県営古波蔵第二市街地住宅が建っており、その面影を見ることはできない。

米軍の与儀ガソリンタンク
写真「米軍の与儀ガソリンタンク」(1970年11月 豊島貞夫さん撮影)
戦後、米軍基地の拡張とその恒久化が図られていく中、昭和27年(1952)に強制接収され、那覇港から嘉手納飛行場までの航空燃料移送の中継地及び石油オイル貯蔵所として使用された。市民の撤去運動により昭和47年(1972)5月14日、本土復帰の前日に全て返還され、現在は小学校や公園、住宅地が広がるエリアになっている。
(2023年8月30日追記)米軍に強制接収される以前、この地には琉球王国末期に進駐してきた日本軍(熊本鎮台沖縄分遣隊)の分営所があった。明治9年(1876)に当時の真和志間切の与儀、古波蔵、国場にまたがる畑地が買い上げられ練兵場や射的場等が設置された。この分遣隊が3年後の明治12年(1879)3月、軍事力で首里城を制圧して琉球王国を滅亡させたのが「琉球処分」と言われる出来事である。


―ンマスーブの他にも地域の行事はあったのでしょうか。
仲村渠さん:あったよ。5~6月は各部落でウマチー※2をやった。ウンサク(神酒)を桶に作って、ウガンジョ(拝所)を回るわけ。10月はシマクサラシ※3。これは疫病払いの行事。豚を1頭ツブして、頭の骨をスージ(路地)の上に吊るす。肉は竹に刺して各家庭に人数分配っていたよ。血は木の葉にぬって家の角に飾る。戦後、古波蔵に人が戻ってきて3回くらいやったけど、野蛮だからってやめてしまったね。
―確かに…今の時代にやるのは難しそうですね。
仲村渠さん:3月3日はハマウイ(浜下り)※4。サングヮチグヮーシ(三月菓子)作ってからみんなで漫湖に行って、楽しかったよ。那覇のエーキンチュ(お金持ち)なんかは奥武山で舟浮かべるのもいたらしいけどね。

※2 ウマチー(御祭)
五穀豊穣や村の繁栄を祈願する行事。旧暦の2月、3月、5月、6月の15日に各集落で行われる。5月は稲や粟の豊作祈願、6月はその収穫祭。ウンサク(神酒)を作るのは6月ウマチー。

※3 シマクサラシ
疫病・災厄払いの行事。「フーチゲーシ(流行病返し)」等とも呼ばれる。南北大東島を除く琉球諸島全域で行われていた行事で、名称だけでなく実施月、実施回数、使う動物の種類等々、地域によって様々な違いがある。

※4 ハマウイ(浜下り)
旧暦の3月3日に浜辺に行き、海水につかって穢れを祓い清める行事。ごちそうを食べながら潮干狩りなどして楽しく遊ぶ日で、サングヮチグヮーシ(三月菓子)はこの日のために作られる揚げ菓子。女性だけが浜に下りて一日を過ごす地域もあれば、部落の老若男女総出で浜辺で過ごすという地域もある。


● 戦前の古波蔵 ●
―仲村渠さんのご家族のことお聞きしてもいいですか?
仲村渠さん:父親は兵隊で、内地で訓練受けた後、沖縄に戻ってきたんだけど、自分が6歳の頃に病気で亡くなったよ。母親と弟がいたけど、戦争で亡くなってしまった。アガリヌモーに避難していたけど、母は食事の用意のために古波蔵のカー(井戸)に行っていた時に艦砲射撃にやられてしまった。母といとこ3名含めて5人がここで亡くなったよ。弟は避難していたアガリヌモーの壕で、米軍の毒ガスにやられて死んでしまった。自分はその時17歳くらいで、少年警察隊に入ってた。県職員とか警察の避難用の壕が繁多川にあって、そこに避難していたから家族と一緒にはいなかった。繁多川から一日橋の辺りまで、昼間は飛行機から機銃、夜は軍艦から艦砲射撃が飛んできてものすごかったよ。(家族と)一緒にいたらね、少しは何かできることもあったかもしれないけど…。
―当時は、その…どんな思いで…。
仲村渠さん:あの頃はもう感覚がマヒしてるから。そのうち自分も(死ぬ)順番がくる。先のこととか頭になかった。戦争が終わった時も、別に何も感じなかった。

沖縄県庁壕(シッポウジヌガマ)
写真「沖縄県庁壕」(那覇市歴史博物館 提供)
別名「シッポウジヌガマ」。那覇市真地にあるガマ(自然洞窟)を利用して作られた避難壕で、戦時中は県庁職員や警察署員が避難していた。現在、敷地の正式な所有者が不明となっており、那覇市文化財課では、県庁壕の遺構保存のため土地所有者を探している(2023年4月28日現在)。

仲村渠さん:戦後、真和志の人達はみんな米須の収容所に移動させられた。自分は6月24日に伊敷の轟壕で捕虜になって、そこで終戦迎えて。その後コザに送られて、コザ孤児院※5で守衛をして1年過ごした後、米須に行った。収容所ではとにかくイモ掘りと遺骨収集をやっていたよ。周りは遺骨だらけで…。真壁の新垣集落では、馬小屋の屋根の上にまで遺体があるのを見た。糸満の「魂魄之塔」にある遺骨はみんな、自分達が集めたんだよ。金城和信さんって知ってる?この人が中心になって、みんなで。金城和信さんはもともと寄宮の、真和志小学校の横に住んでた先生なんだけど、戦後は真和志の村長になって。この方の指導で「魂魄之塔」「ひめゆりの塔」「健児之塔」をつくったんだよ。

轟壕
写真「1945年6月24日 轟壕」(沖縄県公文書館 提供)
旧真壁村(現糸満市)伊敷にある全長約100mの自然洞窟壕。沖縄戦末期、当時の島田叡知事以下の県庁職員幹部が避難し、この壕を最後に県庁・警察警備隊を解散したことから沖縄県庁最後の地とも言われる。もともと地域の住民や各地からの避難民が多く隠れており、さらに摩文仁の軍司令部壕に向かった島田知事と入れ違いになるかたちで日本兵が入り込み、軍官民雑居の状態となっていた。6月24日頃、先に捕虜になった県民の呼びかけに応じて約600名の住民が投降し、生き延びたとされている。一方、米軍に攻撃されても日本兵は住民の脱出を許さず、多くの住民が餓死する等して犠牲になったほか、日本兵による住民虐殺の証言も残っている。写真は、投降して轟壕から出てくる住民と、一緒に出てくる可能性のある日本兵を米軍海兵隊員が見張っている様子を撮影したもの。

※5 コザ孤児院
沖縄戦中、米軍によって各地に孤児院が設置され、戦争で親を亡くしたり兄弟と生き別れた多くの子供達が収容された。11カ所あった施設のうち、コザ孤児院は現在の沖縄市住吉に1945~49年頃まで設置されていた。けがや栄養失調等で亡くなった孤児も多く、正確な収容人数はわかっていない。開設初期にはひめゆり学徒等が世話係となり、孤児の養育と教育に関わった。


―収容所にはどのくらいいたんですか?
仲村渠さん:米須の収容所には2~3年いて、その後は嘉数(豊見城)に移った。その頃、古波蔵にはまだ米軍のドラム缶がたくさん積まれていて、食料置き場にもなっていたから戻れなかった。真和志の人達が収容所から解放されて最初に移ったのは栄町だったよ。あそこも米軍のオイルが入ったドラム缶とか放置されていたから、自分達でどかしてそこに住み始めた。栄町にはもともと女学校(沖縄県師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校)があって、ひめゆり学徒隊の学生たちはこの学校の生徒達だったんだよ。あとは、射撃場※6もあった。昔、真和志中学校の辺りは訓練場(練兵場)だったんだよ。
―仲村渠さんが少年警察隊に入ったのは何か理由があったんですか?
仲村渠さん:ウフヤー(大屋)の近くに駐在所(交番)があって、あの頃は神山さんという駐在さんがいたんだけど、その人に誘われて。楚辺国民学校の卒業式には山口の機関車工場とか色んな所から募集があって、満州鉄道とか、韓国に行った同級生もいた。
―進学する人はいなかったんですか?
仲村渠さん:高等部(2年間)に進学するものいたけど、半分以上は学校6年で卒業だね。古波蔵からは二中※7に行ったのが2人いた。一中出身者は先生、二中出身者は医者になるのが多かった。でも中には兵隊になるのもいて、そういう人は幹部候補生だったね。

※6 射撃場
先述の陸軍熊本鎮台沖縄分遣隊の射撃訓練場のことで、旧安里村にあった。分遣隊派遣終了(1896)後、練兵場は学校用地(現大道小学校)に、射的場は在郷軍人等の演習に使われた。現在も、住宅地の中を細長くのびる松川公園や安里川にかかる「大道練兵橋」の名前に、当時の面影を見ることができる。

※7 二中
沖縄県立第二中学校の通称で、現在の那覇高校の前身。「一中」と呼ばれた沖縄県立第一中学校(首里高校の前身)と、「三中」と呼ばれた沖縄県立第三中学校(名護高校の前身)もあった。


魂魄之塔
糸満市米須にある魂魄之塔。遺骨約3万5千柱が合祀されたが、現在、遺骨の大部分は国立沖縄戦没者墓苑に移されている。平成元年に設置された碑文には、金城和信氏と共に遺骨収集に携わった翁長助静氏(故 翁長雄志前県知事の父)が詠んだ歌が刻まれている。
                和魂と なりてしづもる おくつきの み床の上を わたる潮風


● 後編へ続く ●
お話はまだまだ続きますが、今回はここまで。
実は今回のお話は、昨年8月と11月に聞き取りを行った時のものです。他業務が忙しかったのもあるのですが、お話をまとめるにあたって自分が知らないことがあまりにも多すぎて、色々と調べていたら今になってしまいました。暮らしている地域のこと、そこであった出来事、今でも知らないことだらけですが、今回の聞き取りを通して祖父母のことを想いました。
釣りに連れて行ってくれたあの海を、どんな気持ちで見ていたんだろう。
一緒に歩いた坂道の、道の端に亡くした誰かを探したんだろうか。
もっと色々聞いておけばよかったなぁと思います。

次回は戦前・戦後の古波蔵地域の暮らしについてのお話と、なんと戦前の漫湖の生き物たちについての貴重なお話が盛りだくさんです!
どうぞお楽しみ!

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

金城 和信(きんじょう わしん)
元は小学校(国民学校)の校長で、多くの教え子を沖縄戦で失い、また自身の娘2人もひめゆり学徒として戦場で亡くした。戦後、摩文仁に設けられた真和志村の村長に任命されると、野ざらしにされた遺骨の収集を始め、「魂魄之塔」「ひめゆりの塔」「健児之塔」等の戦没者慰霊碑を建立した。このほか戦没学徒・学童、戦争未亡人、遺家族の処遇問題など、戦後一貫して戦没者の慰霊と遺族のために尽力した。

金城和信
魂魄之塔の隣にある金城和信先生の胸像。沖縄県遺族連合会により昭和40年(1965)に設置された。

★★★この聞き書きシリーズは、「記憶さんぽ」という記事としても発行しています。センターのほか、真玉橋公民館、那覇市地域包括支援センター古波蔵、国場自治会、豊見城市中央公民館、小禄南公民館、小禄自治会の計7カ所に置いていますよ。是非お手に取ってみてくださいね!★★★

※今回の記事をまとめるにあたり、下記資料等を参考にさせて頂きました。
〈書籍・論文〉
沖縄タイムス社『沖縄大百科事典』(1983)
豊見城村『豊見城村史 第6巻戦争編』(2001)
新城俊昭『教養講座 琉球・沖縄史』(2014)
宮平盛晃「琉球諸島におけるシマクサラシ儀礼の民俗学的研究」(2015)琉球大学学術リポジトリ(外部サイト)より閲覧できます
安里進・外間政明『古地図で楽しむ首里・那覇』(2022)
〈WEBサイト〉
沖縄メモリアル整備協会 【沖縄の旧暦六月】神酒を供えるウマチー・カシチー
読谷村史編集室 読谷村しまくとぅば単語帳
沖縄県平和記念資料館 戦世からのあゆみ 戦争体験者戦中・戦後の証言映像-ウンチケーサビラ(ご案内しますからご心配なく)-
〈TV番組〉
NHK BSプレミアム「英雄たちの選択“命どぅ宝”~沖縄県知事 島田叡からの伝言〜」(2015年8月13日放送)
NHK BS1スペシャル「沖縄戦争孤児」(2022年8月14日放送)

同じカテゴリー(昔なつかし漫湖)の記事

 
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。