昔なつかし漫湖と地域のお話、その3後編です!
前回は開学当初の琉球大学や古波蔵埋立地のことなどについて、長年、古波蔵にお住いの豊島貞夫さんからお聞きしたお話を紹介しました。
今回はさらに、古波蔵をはじめとした漫湖周辺地域の戦後の様子についてのお話を、豊島さんの撮られた貴重な写真と共にご紹介します!戦後の地域の人々の暮らしとその変化について、写真を通して見つめてきた豊島さんの思いも一緒に語って頂きました。
● 「みなと村」の記憶 ●
―漫湖周辺の地域では、どの辺りが一番栄えていたというか、賑やかだったのでしょうか。
豊島さん:ちょっとわかりませんね。当時は那覇市に比べればあまり人口も多くなかったはずです。この辺りは旧真和志村なんですよ。古波蔵から旧那覇市を囲んで安謝辺りまで。広さはあるんですが、那覇の中心地からは離れていて、商業はそんなに盛んではなかったんでしょうかね。国場は畑でした。戦前はサトウキビと芋で、戦後は野菜中心になりましたね。ところがだんだん那覇の人口も増えて、真和志村が那覇市と合併すると、国場辺りは土地が求めやすいので人々が移り住むわけです。その頃にはこの辺も人がいっぱいしてました。
写真「那覇市国場」(1960年 豊島貞夫さん撮影)
早朝、霧の立ち込める畑で農作業をする夫婦。豊島さんは「あぁ、ミレーの画だな」と思いシャッターを
切ったのだとか。夫婦の後方に見える2本の煙突は製糖工場のもの。その右手後方には嘉数の丘陵が見える。
豊島さん:「
みなと村※1」をご存知ですか?壺川から
楚辺小学校※2(現在の城岳小学校)の辺りに登っていくあの一帯は「みなと村」でした。戦後は那覇港にアメリカの物資が船で来ますから、その積み下ろしに人手がいるんです。その作業員や家族の方々が住んでいたのがみなと村でした。「
規格小屋※3」という茅葺の5坪半ぐらいの小屋がいっぱいありましたよ。全県的に作られていたんですが、優先的にそこに作ったんです。規格小屋は戦後沖縄の住居状況のひとつのシンボルみたいなものですから、機会がある度にだんだん減っていく様子も撮って…。1960年代まではみなと村の名残もあったんですが、4~5年前に最後の1軒がなくなって、今はマンションが建っています。
写真「那覇市壺川」(2006年11月5日 豊島貞夫さん撮影)
1軒だけ残っていた、終戦直後に建てられた規格住宅(写真中央)。網やタープがかけられ茅葺の
屋根はほとんど見えない。おばあさんがひとり住んでいたのだとか。2017年に取り壊された。
※1 みなと村
昭和 22 年から昭和 25 年(1947-1950)までの間、奥武山を中心に那覇市山下町、旧真和志村楚辺や壺川の辺りにあった村。戦後、米軍専用となった那覇軍港の港湾作業従事者とその家族約 1 万人が暮らす集落だった。港湾作業を民間業者が請け負うことになったことでみなと村は解消され、那覇市に合併された。
※2 楚辺小学校
昭和15年(1940)に開校した楚辺尋常小学校のこと。翌昭和16年には、戦争に備え国への奉仕を目的とした国民学校令により、名前が楚辺国民学校に変わった。戦時中に日本軍の野戦病院と接収され、アメリカ軍の攻撃によって消失した。楚辺小学校の跡地に建てられた現在の城岳小学校の通り沿いには石碑が建てられており、「楚辺小学校は摩文仁にて再建後、移転を重ね終に現与儀小学校に留まり、学校名は永遠に消滅」と刻まれている。
※3 規格小屋(規格住宅)
「ツーバイフォー」と呼ばれる米軍支給の材木で建てられた住宅で、屋根には茅や米軍のテントなどが使われた。戦争で家を失った人たちのために県内各地で建てられ「キカクヤー(規格家)」とも呼ばれた。
豊島さん:僕は1950年に琉大ができた時にこちらへ来て…。戦後5年ですから、まだ焼け野原が残っているんですよ。首里ハンタン山のアカギの傷跡、幹に残っている弾痕だとか…。あれを見るとですね…ああ本当に、戦争って大変だな、と。目に見える戦争の遺跡ですよ。枯れてしまったアカギの枝にアコウの実が落ちて、だんだんアコウが大きくなって。元のアカギはアコウに包まれて見えなくなっているんですけどね。それから枝の所にアコウが芽を出して、大きくなっていって…。そういう風な時代を生きてきたんです。
豊島さん:戦後の、地主も何もわからんところに人々が寄り集まってきて家を作るんですが。人がすれ違うくらいの道幅しかない、そういうところに頑張って残っている建物があるんです。しかしそれはだんだん、だんだん変わっていく。そういうものをひとつの残像として、残しておいた方が良いだろうと思って、少しは撮ったんですけどね。戦後から今日に至る人々の生活の場所を、形として残すことに意味があるんじゃないかと思ったりするんです。
● ホーホー漁 ●
―漁の写真もありますが、これも漫湖でしょうか?
豊島さん:はいそうです。これは追い込み漁です。普通は海でやるものですが。あらかじめ網で囲んでおいて、水面を棒で叩いて網の中へ魚を追い込むんです。一番奥へ追い込んだら、網をあげて魚を獲るわけですね。何の魚を獲っていたのかはわかりませんが、壺川の漁協からまとめて売っていたと思います。古波蔵では売っていなかったので。
写真「壺川ホーホー漁法」(1965年3月 豊島貞夫さん撮影) この「壺川ホーホー漁」について色々と調べていたら、なんと『南島風土記』(1950 東恩納寛惇 著)に記述があった。以下、抜粋。
壺川の住民小舟を浮べて唐三良辺に屯し、水道を遮つて舟を横たへ、上げ潮に乗つて応々掛声勇しく水面を叩きながら舟を推して行くに、銀鱗刺々声に応じて舟中に躍込む、これを壺川ホウホウと唱へたり。硫黄城下の居民七八家打網に妙を得、これを「渡地網打」と唱へ、この二者は那覇名物の中に算へられ、(中略)元来一技にて、後に打網と追込とに分化せしものなるべし。…つまり魚を追い込む際の掛け声が「ホーホー(ホウホウ)漁」と呼ばれた所以であり、元々ひとつの技であった「渡地網打」(投網漁)と共に那覇の名物であったということらしい。また大井浩太郎の論文「入会権の研究概観」(1976)によると、「魚が多いだけに、この地の住民はまた網打の名手として知られていた。この地にさえたどりつくことができれば大小さまざまの魚類がいくらももらえたと言う。この状景は冊使李鼎元の使録にも見える。(中略)打網と追込によって、大量の漁獲を得ていたことがわかる」(p22より抜粋)とある。ホーホー漁は琉球王朝時代より受け継がれてきた壺川の人々の生業であり、漫湖はその暮らしを支える豊かな漁場だったのだ。
豊島さん:僕は家が近いもんだから、漁の現場を見る機会に恵まれました。冬の朝は時々、霧がかかって真っ白なんですよ。その中に、ボートに溜まった水を汲み出す漁師さんのシルエットがかすかに見える。そういう絵になる風景もありました。
―普段の生活の中にそういう風景があるだけでも、人の心のありようが変わる気がしますね。
写真「漫湖」(1966年3月 豊島貞夫さん撮影)
霧中に浮かぶ舟と人。こんな幻想的な風景があったなんて…
● 暮らしの風景 ●
―魚は船でそのまま運んでいたんでしょうけど、例えば国場とか、この辺で畑をしていた人たちはどうやって野菜を運んでいたんでしょうか?
豊島さん:国場の人達は、船で国場川を通って野菜を運んでいたと聞きました。国場川につながる長堂川が製糖工場の前を流れているんですが、川べりに小舟が2つ3つくらい繋がれていました。収穫した農作物を運んだり、那覇から魚を運んだり、そういう交通手段として国場は割と船を使っていたらしいです。
―小舟というと、サバニですか?
豊島さん:いえ、
ティンマーセン※4です。サバニというのは海で魚をとるための舟ですから、ある程度の深さがないといけないですが、ティンマーセンはこの辺のような波のない所で使うので底が少し浅いんです。
―今ではコンクリートで護岸が整備されて舟もありませんが…昔は(地域によっては)舟が車の代わりにその役目を担っていたんですね。当時の川べりは舟が泊めやすいように何か整備されていたんでしょうか?
豊島さん:うーん、特にそういうわけではなかったです。当時は川と畑が一体感があるような感じで…畑地には草むらがあったり、曲がりくねった境界も別に珍しくなかったんですが。今は機械を使うので区画整理されて直線なんです。それが都合が良いのは分かっているんですが…味気ないというか、昔の面影がなくなったなぁと。
―確かに今は、曖昧な時間や空間というのは少ないですね。無意識に窮屈さを感じてるのかも…?
※4 ティンマーセン(伝馬船)
荷物や数名の人を運ぶため使用された木製の手漕ぎ小型船。川の行き来や、停泊中の大型船から岸に人や物を届ける時などに使用されていた。沖縄で舟といえばサバニが有名だが、漁船であるサバニと違い、伝馬船の船底は平たく浅い。
写真「古蔵中学校の道向いにあった池」(1960年 豊島貞夫さん撮影)
前に地域の方から「古蔵中学校前の池ではアヒルの養殖やってたよ」と聞いたことがあったが、その場所だろうか?
―古波蔵埋立地の辺りは、豊島さんが移ってきた頃、車は普通に走っていたんですか?
豊島さん:1960年代ですから、車はそんなに多くはなかったです。行きたいところがあったら歩きですね。当時はバスもまだあまりなくて、トラックをバス代わりにしていましたよ。荷台にイスが置かれていて、そこに座るんです。バスと同じようにお金を払って乗るんですよ。一番最後まで残っていたのは平安座島の方じゃないのかな。今は海中道路ができているけど、あそこは干潮時にトラックで平安座島、宮城島辺りに人を運んでいたんです。そういう時代が結構続いていましたね。有名な話だったんだけど、もう昔話だなぁ。
豊島さんのお話をもとに作成した地図(※地図は国土地理院の空中写真(1977)を加工して引用)
戦後、漫湖には国場ベニヤ株式会社と沖縄プライウッド株式会社のベニヤ板工場があり、明治橋から那覇大橋にかけての両岸(旧みなと村に挟まれたエリア)は原料のラワン材を保管する貯木場だった。水面に浮かぶたくさんの丸太が記憶にある人も多いのでは?
● これからの人たちへ ●
―写真を通して暮らしや環境の移り変わりを見つめてきて…これからに向けて、何か思いはありますか?
豊島さん:現代人は自然とのつながりがだんだん薄くなって…。それを意識しているかどうかは別として、やっぱり問題じゃないかと思います。だから漫湖水鳥・湿地センターのような、自然と人々とを結びつける場所は非常に大事だと思います。人間も自然の一部ですから。私は宮古青少年の家ができて最初の仕事をやったんですが、あそこは大野山林の中にある施設で、朝から鳥の声を聞いて…。あの時私は意識的にあの職場が好きでした。というのは、その前に
ナナサンマル※5の仕事をやって。交通方法の変更という、現代社会の人間の生活様式を変える難しい仕事だったもんですから、あれに相当疲れていて。全く環境の違う大野山林の森の中に3年程いたら…、命が長らえました。癒されましたよ。自然の中で過ごす時間を持つというのはとても大事なことだと思います。これからの人たちには、自然の中で生きる大切さを分かってほしい。人間ってやっぱり、自然の子どもだと思うよ。
※5 ナナサンマル(730)
昭和47年(1972)の本土復帰から6年後の昭和53年(1978)7月30日、米軍統治時代から続いていた車の右側通行が左側通行へ変更された出来事のこと。約5年をかけて準備がおこなわれ、道路標識や信号、バスの乗車口や車のヘッドライトの変更などがおこなわれた。また「車は左 人は右」を合言葉に、学校での交通安全教育や、テレビや新聞でのキャンペーンも盛んにおこなわれた。
「海が好きで、以前は知念岬や豊崎ビーチ、残波岬などによく行きました」と豊島さん。写真は今でも撮り歩いているのだとか。
● 聞き取りを終えて ●
風景というのは、季節だけではなく、そこにある人々の暮らしと共に変わっていきます。漫湖が地域にとって大事な場所であることは今も昔も変わらないと思いますが、今回のお話しや写真を通して改めて、漫湖の風景がこんなにも変わってしまったんだと感じました。これから50年、100年、もっと先の時代には、ここにはどんな風景が広がっているんでしょうか。私たちは、どんな風景を残していきたいんだろう。
豊島さん、貴重なお話しと写真を有難うございました!
★★★この聞き書きシリーズは、「記憶さんぽ」という記事としても発行しています。センターのほか、真玉橋公民館、那覇市地域包括支援センター古波蔵、国場自治会、豊見城市中央公民館、小禄南公民館、小禄自治会の計7カ所に置いていますよ。是非お手に取ってみてくださいね!★★★
※今回の記事をまとめるにあたり、下記の資料を参考にさせて頂きました。また、壺川ホーホー漁については那覇市歴史博物館から情報提供して頂きました。ご協力頂き有難うございました。
東恩納寛惇『南島風土記』沖縄文化協会、沖縄財団 (1950)
大井浩太郎「入会権の研究概観」『沖大法学論叢』 (1976)
豊島貞夫『記憶の中の風景』琉球新報社 (2007)