昔の漫湖や周辺の様子について、地域の方に聞いたおはなし「聞き書き」シリーズ。
今回は、古波蔵在住の豊島貞夫さん(89)からお聞きしたおはなしを紹介します!
豊島さんは長年、沖縄各地で写真を撮り続けてこられた方です。開学当初の琉球大学での学生生活や、古波蔵地域のお話など、貴重な写真と共に語って頂きました。
● 開学当初の琉球大学 ●
―豊島さんはもともとどちらのご出身ですか?
豊島さん:出身は宮古島です。元の姓は今とは違ったんですが、軍に入隊した父が沖縄姓で苦労したそうで、戦後に「豊島」に改姓したんです。当時はそういうことがしやすかったみたいですよ。家は農家で、サトウキビとかサツマイモとか作っていました。僕も手伝いましたよ。昔は宮古馬って農耕馬がいて、小さくて優しい馬でね。畑を耕すのに鋤を引っ張ってくれるんですが、この馬と一緒に畑仕事するのは好きでしたね。でもやっぱり農業は難儀だから…かと言ってやりたいことも特になく、何をしようかと。あの頃はとにかく教員が不足していた時代で、教科だけなら教員の仮免許がとれましたから、好きだった社会科の仮免許をとったんです。そしたら高校の卒業式の前に琉球大学ができるという話が来て。宮古の枠は36名だったんですが、それに何とか入ることができて、1950年の5月に入学したわけです。
―1950年というと、まさに琉球大学が開学した年ですね!どんな学生生活だったんですか?
豊島さん:あの頃琉大は首里にありました。当時は教育、特に小中学校教員の養成が必要だという事で、教育学部や外語学部等が最初にできました。僕はコンセットの寮に住んでましたね。1棟に30名くらいかな、宮古、八重山、沖縄本島、奄美…、県内各地から来た学生達と一緒に生活して。米軍の野戦ベッドで寝るんですよ。あれはとても楽しかった。
写真「那覇首里 沖縄厚生園コンセット」(1964年3月 沖縄県公文書館所蔵)
「コンセット」とは、米軍のトタン葺きかまぼこ型の建物(Quonset hut)のこと。戦後は
県内各地に建てられていた。開学当初の琉球大学には、12棟のコンセット男子寮があった。
豊島さん:あの頃は授業料もありませんでした。戦後間もないですから、大学の性格もまだはっきりしてなくて。運営者はUSCAR(米国民政府)でもなければ、沖縄民政府というわけでもなく…「植民地大学」というか。食費は週に一回草刈りのバイトをしたりしてまかなっていました。当時はまだ原っぱに瓦礫がごろごろ残っているような状況でしたからね。大学も建設途中だったから、友達と基礎工事のバイトをしたりもしました。新聞部に所属していたんですが、この頃から写真を撮るようになりました。父がジャバラのカメラを買ってくれて。本土出張に行く父にねだって買ってもらったんですが、今思えば…ちょっと無理して買ってくれたんでしょうね。
―そのカメラがあって、今の豊島さんがあるんですね。
写真「建設中の琉球大学寄宿舎」(1953年2月 沖縄県公文書館所蔵) 現在は西原町にある琉球大学だが、開学当初は沖縄戦で破壊された首里城跡地に設置されていた。
校舎や敷地の整備は1950年の開学以降も続いていた。
● 写真を撮る ●
―大学を卒業した後は何をされていたんですか?
豊島さん:大学卒業後は社会科の教員になって、高校に赴任しました。県の教育委員会にも23年程いましたよ。那覇高校に赴任していた時に城岳写友会に誘われまして。その時にはジャバラカメラは少し古いタイプのカメラだったので、奮発して一眼レフのカメラをボーナスで買ったんです。そしたら、あれ、ちょっと足りないぞ、となりまして。給料を前借りして買ったんですが、ボーナスを楽しみにしていた家内は、一眼レフカメラと借用証書を持ってきた私にもう、呆れてました(笑)
—教職のかたわら写真を撮られていたんですか?
豊島さん:今もそうですが、カメラは肌身離さず持ち歩いていました。学校の修学旅行の写真を撮ったり、オリンピックの聖火リレーを撮ったり。それから仕事で離島等に出張すると、今と違って日帰りというわけにはいかないので、それであちこちで写真を撮りましたね。城岳写友会の先輩からは「テーマを決めなさい」と言われて。最初は「子ども」をテーマに息子をよく撮りましたよ。そのうち雲と海とか、人々の生活をテーマにするようになって…。日常生活から切り離された時間というか、夢中になれるものがあるというのは、本当に良かったと思います。
写真「生まれ変わる赤木と首里城復元」(1976年12月 豊島貞夫さん撮影) 戦前、首里城城門近くには1mもの太い枝を城壁まで伸ばすアカギの巨木があったが、沖縄戦で焼かれてしまった。戦後、残された枯れ木にアコウが根を下ろし、アカギと一体化するような形で再び大木へと成長した。豊島さんの写真には、復元が始まった首里城と共にアカギの上に青々と葉を茂らせたアコウが写っている。戦争ですべてを失い、ゼロからのスタートとなった沖縄を象徴するかのような姿。1977年に琉球大学の移転が始まるまでこの道を通った学生達は、どんな思いを抱いただろうか。
● 古波蔵埋立地 ●
—古波蔵にはいつ頃から住まれているんですか?
豊島さん:1964年からですね。土地購入の募集が出ていたので、じゃあ応募してみようかと。漫湖に隣接した古波蔵の3~4丁目は1960年頃に埋め立てでできた土地なんです。4丁目の方は、1963年に樋川で起きた大火事で焼け出された人達が大勢いたんですが、そうした人達を優先して移住させていました。そういう場所なので、地元の人はいない、寄合世帯なんです。ただ、横のつながりがないのもどうかということで、志ある人達が集まって自治会を作りました。今は加入者が年々減ってきてはいますが、近所同士仲が良いですし、つながりも続いてます。
—他の方々はどこから移ってきたんでしょうか。
豊島さん:どこから来たということはあまり意識したことがないし、お互いそういう話は特にしないですね。もうこの場所が私達の故郷という感覚です。ちょうど真ん中に「埋立地市場」という、那覇の公設市場をもっと小さくした感じの市場がありました。その後更に埋め立てで漫湖公園もできて。生活が便利で、水と緑があり、住人同士の仲も良い。とても住み心地のいい場所です。
写真「古波蔵埋立地」(1975年7月 豊島貞夫さん撮影)
写真右側には写っているのは、造成中の漫湖公園(1980年7月開園)。橋げたの上で遊ぶ子どもたちは、何か見つけたのだろうか?
—今でこそ、「埋立て」にあまり良い印象を抱かないことが多いですが、こうしてお話を聞くと違った印象がありますね。特に当時は、戦争で家や土地を追われた人が大勢いて、人々が生きていくために土地が必要だっただろうし…。
豊島さん:そうですね。ただ確かに、地域の人達にとっては埋めない方が良かったのかもしれない。埋め立てで漫湖が狭くなってしまったから。…僕は気が向いたら、夜明け前に近くの橋を散歩したりするんですが。満潮の、特に風のない日はまるで鏡のようなんです。日が上る方をぼーっと見て、自然に溶け込むような…。そういう風景が近くにあるというのは、有難いことです。
● 後編へ続く ●
お話はまだ続きますが、今回はここまで。
一昨年、センターに昔の漫湖の写真が寄贈されたことが新聞で紹介されたのですが、その記事を見た豊島さんから写真寄贈の打診を受けたことが、豊島さんと知り合ったきっかけでした。
その時たまたま豊島さんの写真集
「記憶の中の風景」を図書館で借りて読んでいた私は驚いたのなんのって…。因みにこちらの本、センターにも置いていますよ!読んでみたいという方はぜひお声掛けくださいね。
さて、後編は戦後復興と共に変化していった漫湖周辺地域についてのお話しを紹介します。
お楽しみに!
★★★この聞き書きシリーズは、「記憶さんぽ」という記事としても発行しています。センターのほか、真玉橋公民館、那覇市地域包括支援センター古波蔵、国場自治会、豊見城市中央公民館、小禄南公民館、小禄自治会の計7カ所に置いていますよ。是非お手に取ってみてくださいね!★★★