昔の漫湖 聞き書き その2前編

漫湖水鳥スタッフ

2021年11月28日 16:53

久しぶりの「昔の漫湖 聞き書き」の更新です!
今回お話を伺ったのは、小禄にお住まいの平良幸男(72)さん。
前回ご紹介した高良さんご夫妻は小禄同村(うるくどぅーむら)のご出身でしたが、平良さんは同じ旧小禄村でも字鏡水(あざかがみず [カガンジ] )のご出身です。
字鏡水は、戦争によって元々の土地をすべて接収された部落のひとつ。戦後につくられた新部落で暮らしてきた平良さんに、戦後間もない頃の小禄地域の暮らしと、思い出話を語って頂きました。

● 戦後の小禄村-津真田- ●
-平良さんは、もともと小禄のどの辺に住んでいたんですか?
平良さん:字小禄で育ったけど、5歳くらいまでは津真田に住んでたよ。今の高良小学校の辺りは津真田原(ツマダバル)というんだけど、家はそこの、ちょうど小禄南公民館の辺りから坂をのぼりきったところにあった。最初は高良幼稚園で途中から小禄幼稚園に通ったんだけど、あの頃の学校はまだ茅葺きで、椅子とか机もない。壁に板が打ち付けられていて、それが椅子代わりだったよ。給食もないから午前中で終わり。小学校の途中からはパンが一個出るようになったな。高学年になったら2個。脱脂粉乳も出るようになったけど、あれは好きじゃなかったな。
※「津真田」については記事の最後でも少し紹介します。


写真:「小禄初等小学校の茅葺の校舎」(那覇市歴史博物館 提供) ※無断転載禁止
1948年頃の小禄小学校。平良さんが通った頃も茅葺の校舎が残っていたそう。こうした規格
木材(ツーバイフォー)と茅葺屋根でできた家は、戦後の仮設住宅として各地で建てられた。


● 子どもの遊びと自然 ●
平良さん:あの頃は本当に何もなかったから、原っぱでトンボ捕まえて遊んだりしたよ。移転前の育英堂があったところ、今はマンションになってるけど、昔はその裏手に豚小屋があって、そこの坂を上っていった向こうは原っぱだった。「台風前のカジフチトンボ※1」って言って、台風前はそれがたくさん飛んでるわけさ。赤トンボと言っていたけど、実際は黄色っぽいトンボだった。50~60cmくらいのひもの両端に小さい石ころを結んでから、これを上に投げる。そしたら石ころを小さい虫か何かと思って飛んできたトンボにひもがくるくるくるっと絡まってね。あの頃はみんな貧しかったけど、中にはトンボ食べる子もいたよ。お腹すかせてからさ。トンボはいろんな種類がいたよ。黒トンボとかグンカントンボ※2・・・グンカントンボは青いやつ。今は見なくなったな。それからオニヤンマとかギンヤンマとかね。これが大きくて人気があった。昔はあちこちにカー※3とかクムイ※4があったからさ、トンボとかもいっぱいいたよ。自分たちもそこで水飲んだり野菜洗ったりしてね。

※1 カジフチトンボ
ウスバキトンボのこと。「カジフチ」とは「風吹き」という意味。台風前になるとよく飛んでいた。また逆に、カジフチトンボがよく飛んでいるとこれから風が吹き始める(台風が来る)とわかったのだとか。

※2 グンカントンボ
おそらくオオシオカラトンボのこと。青いのはオスのみで、メスは黄色っぽい。

※3 カー
井戸のこと。飲料水としての利用はもちろん、洗濯や野菜を洗うの等にも利用されていた。人々の生活を支えるカーは地域で大切にされてきた。そのためか、水道が普及した現在でも各地に残るカーを見つけることができる。

※4 クムイ
小堀、溜池のこと。農業用水として、また馬や農具を洗うのに使われた。今ではそのほとんどが埋め立てられ、残っていない。


―カーは今もそこここに残ってますけど、クムイはどこにあったんですか?クムイがどんなものなのかいまいちよく分からなくて…。
平良さん:クムイというのは池さ。自然にできたものもあったし、誰かが穴掘って作ったのもあった。戦争の艦砲射撃でできたクムイもあったよ。今でも斎場御嶽には残ってるさ。この辺りのクムイがどこにあったかもう覚えていないけど…あちこちにあった記憶がある。親には危ないから行くなと言われていた。実際に溺れて亡くなる子とかもいたから。


高前原公園内にある「津真田カー」。この辺りから坂を上っていった所に平良さんの家があった。
現在そこは住宅地になっているが、家々の向こうに瀬長島や遠く慶良間島まで見ることができる。


―他にはどんな遊びがあったんですか?
平良さん:この頃の遊びと言ったらパッチー(めんこ)。グリスを塗って重くするわけさ。小禄には「禄運」って、小禄運輸のことだけど、そこで働いてる人が多かったから、運転手やってる人とかがこれ使うかーってグリスくれよったよ。あとは…鬼ごっことかけんけんぱーとか、頭切りもやってた。頭切りっていうのは鬼ごっこみたいな、頭を触られたら負けみたいな遊び。小学校4~5年生の頃だったかな。友達と公園で頭切りしていたら滑り台の角に頭ぶつけて、本当に頭切って血そーそー(血だらだら)して大変なったよ。その後はどうしたかあんまり覚えてないけど、確か明治橋を渡ったところにしか病院はなかったから、あそこまで行ったかもね。明治橋の向こうに行くことを「那覇に行く」と言ってたよ。今の一銀通りの安木屋がある辺りは病院通りだった。
―今みたいに病院が近くにあるわけではなかったんですね。
平良さん:昔は薬局なんかもなかったし、お金かかるから基本的に病院も行かなかったよ。体が弱い子供とか風邪ひいた時なんかは、ツチガエル※5を煎じたエキスを飲ませてたよ。シンジムン(煎じたもの)って言ってね、薬としてあげるわけ。弟のひとりは体弱かったから、時々あげてたよ。「アタビー トゥティクーワ(カエルとってくるさ)」って言ってさ。体の弱い子にはとにかく栄養のあるものをあげていた。卵やりんご、フーチバー(よもぎ)とか…。
―カエルを?風邪に効くんですか?
平良さん:これがまたよく効くわけさ。昔は虫とかカエルの鳴き声がいっぱい聞こえたよ。昭和30年代後半くらいかな、ウシガエル(外来種)が入ってきて、これはうるさくて大変だった。牛みたいな鳴き声でしかも結構大きくて、あっちこっちにいたよ。でも捕まえて食べたりはしなかった。それから、ナーナチューでもよく遊んだな。ナーナチューはサトウキビみたいに節のある細長い草。これの節を折って輪ゴムに引っ掛けて飛ばすわけさ。当たったら結構痛いよ。


平良さんが実際にやって見せてくれた、ナーナチューを飛ばす遊び。この植物はパラグラス。  
ナーナチューとはパラグラスのみを指すのか、それとも他のイネ科雑草のことも含むのだろうか?


平良さん:あの頃は工事現場も遊び場だった。ちょうど宇栄原団地を建ててたから(昭和38~41年(1963~966)建設)、そこでもよく遊んだよ。フルガニ※6とか火薬とか、人骨もいっぱい出てきた。ソーメン火薬って言って、細長い火薬があるんだけど、それを鉄パイプに詰めてビー玉入れて、テッポウみたいにして遊んだりもしたよ。今考えるとめちゃくちゃ危ない。工事現場で子どもたちが火薬で遊んでたって情報が学校に入ってさ。集会で「火薬で遊んだ人は手をあげなさい」って言うから馬鹿正直にあげたら、一緒に遊んだほかの仲間はしらんぐゎーしー(知らん振り)してさ。でも結局ばれてみんなで先生に怒られたよ。

※5 ツチガエル??
本来のツチガエルは沖縄には生息していないので、「ツチガエル」という俗称の別種のカエルだと思われる。おそらく、畑によくいるとか、土の色に似ているといった理由でそう呼ばれたのでは?

※6 フルガニ
古鉄。スクラップのこと。1950~1958年頃、米軍による基地工事や朝鮮戦争によって鉄鋼への需要が高まり、沖縄戦の残骸からくず鉄を収集する「スクラップブーム」が巻き起こった。スクラップが沖縄の輸出額1位を記録する年もあった程だったが、砲弾解体中の爆発事故等により多くの死者も出した。戦後から1958年までの13年間で623人もの人が爆発事故で死亡したとされる。

―当時は身の回りにあるものはなんでも生活や遊びの道具だったんですね。火薬は危なすぎますが…。身近な生きものって、他にどんなものがいたんですか?
平良さん:小学生の頃はうさぎを飼ってたよ。ペットというよりは遊びというか…どこの家も似たような感じだった。中学生の頃はニワトリも5~6羽養っていたよ。卵をとる用にね。大きくなって卵産まなくなったらしめて食べた。もちろん自分たちでしめるんだよ。あとソーミナー※7も。捕まえて増やしてたよ。ヤンムチ※8で捕まえるわけさ。子どもたちでソーミナーの鳴き声勝負もやったよ。鳴くタイミングと声の大きさで勝負するわけさ。「アン トゥイグヮー フキィーンドー(あの鳥よく鳴くよ)」とか言ってね。ちょっと遠いけど名嘉地まで行って勝負するのもいたよ。

※7 ソーミナー
メジロのこと。メジロを捕まえてペットにしたり鳴き声勝負をすることは日本各地で行われていたが、現在は捕獲も飼養も原則禁止されている。

※8 ヤンムチ
トリモチのこと。セミを捕まえるのにも使った。平良さんはマチャーグヮー(商店)で買ったものにグリスを混ぜて使ったのだとか。人によってはヤンムチを自作していたらしい。どなたか作り方知りませんか?


平良さん:昔は自然で遊ぶのが普通だった。遊びは全部先輩たちから習う。上下関係とかもね。「年長者を敬いなさい」とか、色々、大事なこと。今と違って、同い年の子たちとだけ遊ぶっていうのはなかったよ。小禄高校の所に大きいガジュマルの木があって、みんなでそこに行くわけさ。そしたら先輩たちが木の下に石を置いて、ここにキーヌシー(木の精)が下りてくるって言うわけよ。今から呼び出すから合図したら逃げれってね。「キーヌシーヨー ンジティクーンドー(木の精が出てくるよ)」とかなんとか言ってしばらくしたら…「トーナマ! ヒンギレー、ヒンギレー!(ほら今だ!逃げろ、逃げろ!)」って、そしたらとにかく急いで逃げるわけさ。それでもちょっと遅れたのがいたりして、そいつはもう、何かに押さえつけられたみたいに動けない。金縛りにあったみたいな感じさ。そのあとに「ほら、木の精が本当にいるのが分かっただろ?こうやって見られているんだから、勝手にものを壊したりしたらダメだぞ」って。そういう風にして教わったよ。あの頃の子どもたちは純粋だったよ。そういうの本当に信じていたわけさ。「ミミチリボウズ(耳切坊主)」って唄があるでしょ。自分もあれ本当に信じていて(耳切坊主がいると思っていて)、怖かったよ。

● 後編へ続く ●
お話はまだまだ続きますが、とりあえずここまで。平良さん、色々とお話しして下さって有難うございました!
平良さんのお話を聞いていると、戦後の沖縄はものすごく色々なことが変わっていったんだという事を感じずにはいられませんでした。今の小学生の子たちと自分が小学生だった頃(約30年前)って生活水準にあまり大きな差はないように思いますが、平良さんが小学生だった頃(約60年前)と比べると、色々なことが違いすぎる・・・。
後編では漫湖の思い出や、ハルサー(農家)の暮らしについてのお話をご紹介します。
お楽しみに!

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

「津真田」という場所
鏡水を含む旧小禄村は、戦争で土地のおよそ8割を接収されました。昭和21年(1946)、小禄村民の受入れ地として津真田及び高良の一部地域が解放されると、現在の小禄南公民館のある場所を中心とした大集落ができ、この辺りの原名をとって「津真田」と名付けられました。しかし、次第に居住地をめぐって元の住民とトラブルが起こるようになり、また戦後の引揚げ等で人口は更に増加。当時の国際情勢や更なる軍施設拡張を目の当たりにし、元の部落へ帰る望みを断念せざるを得なくなった鏡水含む五部落の人々は、新部落建設移動を計画。そうして字小禄の一部の土地(長田原(ナガタバル)および不知嶺原(フチンミバル))の買収と、漫湖埋立による鏡原町の建設が行われました。
因みに、新部落建設の顕彰碑が那覇市田原にありますよ。場所は美容室サロンドTAMAさんの正面です。気になる方は足を運んでみてくださいね。


当時の小禄村長で新部落建設期成会会長の長嶺秋夫氏の銅像と、長嶺氏をはじめ委員を務めた
各字の方々の名前が刻まれた顕彰碑。田原の村ガーだった井戸「フチンミガー(不知嶺ガー)」
も残されている。銅像の周りに立つ5本の石柱には、新部落建設に関わった5部落(安次嶺、
大嶺、鏡水、当間、金城)について詠まれた歌が刻まれており、かつての暮らしを想起させる


★★★この聞き書きシリーズは、「記憶さんぽ」という記事としても発行しています。センターのほか、真玉橋公民館、那覇市地域包括支援センター古波蔵、国場自治会、豊見城市中央公民館、小禄南公民館、小禄自治会の計7カ所に置いていますよ。是非お手に取ってみてくださいね!★★★

※今回の記事をまとめるにあたり、こちらの資料を参考にさせて頂きました。
沖縄しまたて協会 『しまたてぃ No.69』 (2014)
鏡水自治会 『字鏡水創立八十周年記念誌』 (1983)
鏡水郷友会 『字鏡水創立百周年記念誌』 (2005)
宜野湾市 『宜野湾市議会史 活動編』 (2006)

関連記事