昔の漫湖 聞き書き その1後編

漫湖水鳥スタッフ

2021年06月16日 17:16

お待たせしました。昔なつかし漫湖のお話、後編です!
昔の漫湖にはどんな生き物がいたのか?小禄の人たちはそこでどんな暮らしを営んでいたのか?
昔から小禄地域にお住いの高良忠清さん・ヒロ子さんご夫婦からお話をお聞きしました。

●漫湖の生き物●
―忠清さんは、漫湖で何か生き物をとったりしましたか?
忠清さん:アンチャン※1やクチャアンチャン※2といった貝に、魚やエビもとったよ。このくらい(10cmくらい?)の白っぽいエビだった。それからターチャーというウナギの黒いのもいた。これは骨が多かった。
ヒロ子さん:チンボーラー※3もいたね。
―魚やウナギはどうやってとっていたんですか?
忠清さん:手でとってたよ。水が濁って見えないから、とりあえず手を突っ込むわけ。たまにガザミもいたりしてね。戦後は、人骨もよく出てきた。

※1 アンチャン
おそらくオキシジミ(二枚貝の仲間)のことだと思われる。今でも漫湖で見られるが、数が減少しているのか以前ほどはいない。因みに古波蔵出身の方から、「アフケー」と呼んでいたとの情報も。

※2 クチャアンチャン
忠清さん曰く細長い貝で、クチャアンチャンのもぐっている泥の表面には穴が二つあいているのだそう。マテ貝の仲間?

※3 チンボーラー
沖縄では海でとれる小さな巻貝をこう呼ぶ。今でも居酒屋等で出されることがある。


忠清さん:漫湖の水で豆腐も作っていたよ。豆腐は基本的に各家庭で作っていた。昔は、海に行くとフユーナームン(怠け者)になると言って、大人は子どもたちを漫湖に行かせたがらなかった。エビや魚を捕まえるのに夢中になって、畑仕事をしなくなるから。だけど3月3日のハマウイ(浜下り)の日だけは堂々と行くことができた。その日は女子供だけじゃなくて、男もみんな一緒に海(漫湖)に行って遊んだよ。とっても楽しかった。

豆腐作りに使う石臼。側面の穴には取っ手になる棒をさし、上の穴から豆や水を入れて挽く。
豆腐のほか、ムーチーを作る時等にも使われた。(※写真の石臼は職員の実家(小禄)のもの)


―(大正時代の地図を見ながら)エビや貝をとっていたのはどの辺りですか?
忠清さん:この辺り(小禄集落の前)。あと、ここ(小禄集落の東側)には小さな川が二つ流れていて、それぞれ橋が架かっていたんだけど、その橋の所でもエビとか魚がよくとれたよ。ヒーラーグヮー※4といって、釣った時ククッと鳴くわけ。これは天ぷらにして食べた。橋はティーチスーワ、ターチスーワと呼んでいて…今のでいご食堂があるところ、あそこがティーチスーワだった…いや逆だったかな。

※4 ヒーラーグヮー
おそらくシマヒイラギまたはセイタカヒイラギ(方言名:ユダヤガーラ)のことだと思われる。センターのイベント「漫湖みんなで水族館」でよく展示される魚の一種。



忠清さんのお話をもとに作成した地図。(※地図は「今昔マップ on the web」より加⼯して引⽤)


●謎の植物?「ウィー」●
忠清さん:漫湖側(現在の小禄1丁目辺り)の方はシッタイジー(水気の多い土地)で、ウィーダーだったよ。ウィーダーというのはウィーを植えてる田んぼのこと。これは畳を作る材料になる。
―「ウィー」ってどんな植物ですか?ビーグ(イ草)のこと?
忠清さん:ビーグとは違う。似てるけど、ビーグの方が上等。ウィーは日本語で何というかな…。
ヒロ子さん:(植物図鑑を見ながら)この、カヤツリグサに似てる。これは茎が三角だけど、ウィーは四角だったね。ビーグは上等だからタタミ作るのに使われたけど、ウィーはどちらかと言えばゴザとかむしろに使われていた。
忠清さん:10~11月頃に収穫していた。刈った後の株は残しておいたらまた生えるけど、2~3年に一度は植えかえていたよ。大きさはタタミ半畳より少し長いくらい。でないとタタミが作れないからね。収穫したらしばらく干して乾燥させる。母はウィーを歯で裂いていたよ。ずっとやっていると汁が歯についてもう…なかなか取れない。長年やっていたせいで母は歯がなくなっていた。そのうちチンダ(針金)が出てきてからは、これで裂くようになった。こういう風にして(横に張った針金にウィーを通して)裂く。機械ぐゎーと言っていたよ。裂いたウィーは売るんだけど、あまり上等じゃないのは二番ぐゎーといって、かまどの、台所のね、上の方に入れて保管していた。これを野菜とかを包む用のひもとして売るわけ。これを売ったお金で豆腐とか魚とか買ってたよ。

●聞き取りを終えて●
―今日は、戦前から1950年代頃のお話を主に聞かせて頂きました。今の漫湖の様子や私たちの生活からはなかなか想像しがたい風景ですね…。忠清さんにとって漫湖の一番の思い出って何ですか?
忠清さん:やっぱり、子どもの頃のハマウイが一番の思い出だね。みんなで魚やエビをとって食べて遊んで…本当に楽しかった。
―今の子供たちも、漫湖でそういうことができたらきっと喜びますよね。
忠清さん:そうだよ。だからあなたたちもこれからも頑張って。応援してるからね。




実はインタビューをした職員は生まれも育ちも小禄の人間なのですが、忠清さんヒロ子さんのお話は初めて聞くことばかりで驚きでした。
昔の暮らしは、今よりずっと身近な自然とともにあったんですね。
それから生き物や植物についてのお話もいくつか出てきましたが・・・気になる!
こちらも色々と調べていきたいと思います。
忠清さん、ヒロ子さん、貴重なお話をどうも有難うございました!

センターでは昔の漫湖や地域の暮らしについて、これからも聞き取りをしていく予定です。
皆さんが知っている昔の漫湖のこと、生き物や植物、地域の暮らしについてなど、私たちにお話してくれませんか?
「詳しい人知ってるよ~」といった紹介や、「こんな写真や昔の道具(民具)があるよ!」といった情報も大歓迎です。
お話が聞けたら、また記事にしてご紹介しますね。
お楽しみに!

★★★この聞き書きシリーズは、「記憶さんぽ」という記事としても発行しています。センターのほか、真玉橋公民館、那覇市地域包括支援センター古波蔵、国場自治会、豊見城市中央公民館、小禄南公民館、小禄自治会の計7カ所に置いていますよ。是非お手に取ってみてくださいね!★★★

追記:
忠清さんのお話の中に出てきた「ウィー」について、気になったので色々調べてみたところ・・・これではないかという植物が!
その名も「シチトウイ(七島藺)」。別名「リュウキュウイ(琉球藺)」とも呼ばれるカヤツリグサ科の植物で、湿地に群生し、畳表などに使われることもあるのだとか。
大分県の国東半島では現在でも栽培されており、畳表などシチトウイを使った商品の生産も行われているそうです。
そして、その生産を行っている会社のHPで収穫したシチトウイを分割する作業の動画が紹介されているのですが、忠清さんが言ってたのってこれのことでは!?皆さんもぜひ見てみてください!
株式会社 国東七 http://www.ks7.co.jp/giahs/index.html

うちにウィーで作った畳表があるよーとか、機械ぐゎーがあるよーなんて方、いませんか!?
情報お待ちしています!

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