5/29ブログお引越し&昔の漫湖 聞き書き その1前編

漫湖水鳥スタッフ

2021年05月29日 17:16

ブログを引っ越しました!
(旧ブログ:漫湖日和2 https://manko-mizudori.blog.ss-blog.jp/
そして約10か⽉ぶりの更新…。
Facebookで漫湖の最新情報をお届けするようになってからブログの更新が⽌まってしまっていましたが、これから漫湖やセンターに関する⼩ネタや記事などを投稿していきたいと思います︕

そんなわけで今⽇は、昔の漫湖についてのお話を紹介します。
先⽇、⼩禄にお住まいの⾼良忠清さん(84)と奥様のヒロ⼦さんから、昔の漫湖や⼩禄地域についてお話を伺ってきました。忠清さんは、センターがいつもお世話になっている那覇獣医を開業された先⽣でもいらっしゃいます。⼈々の暮らしと漫湖とのかかわりについて、戦前から1950年代にかけての貴重なお話を聞かせて頂きました。

●昔の⼩禄の暮らし●
―忠清さんはもともとどちらにお住まいだったんですか︖
忠清さん︓実家は「殿(トゥヌ)」(森⼝公園内)の辺り。今も⽯畳の道が残っている所だよ。昔はあの辺りから後原(くしばる)まで⽯畳の道だった。太平洋戦争の頃、「殿」は⽇本軍の探照灯の陣地になっていて、そのために⽶軍に爆弾をたくさん落とされてしまった。⾃分は⼩学校2年⽣から4年⽣の12⽉まで、熊本に疎開していたよ。


森口公園内にある「殿(トゥヌ)」。昔から⼩禄のムラの⼈たちにとって⼤事な場所だった。戦後、忠清さん達が松の⽊を植えたり、きれいに整備しなおしたのだとか。⾼台にあるので、漫湖はもちろん、南には瀬⻑島も⾒える。

忠清さん︓戦後直後は、もともと持っていた⼟地に関係なく、それぞれに新たに⼟地が割り当てられたけど、うちが割り当てられたのはシッタイジー(⽔気の多い⼟地)だったから苦労したよ。それでも⾃分たち(⼩禄の⼈たち)には⼟地があった。⽥原や⾦城は、ほとんど⽶軍に⼟地をとられてしまったでしょう。
ヒロ⼦さん︓⼟地をとられたから家は移ったけど、畑には⼊れたよ。フェンスで囲われていたけど、パスを⾒せたら開けてくれて、そこで畑をしていた。(※ヒロ⼦さんは⾦城のご出⾝)
―いわゆる、「黙認耕作地」のことですね


家や畑の間をぬうように細く伸びる⽯畳。歩いていると、⿃や⾍たちの声がきこえてくる。
忠清さんの実家のあったところは、今は忠清さんが畑をしている。


―当時の⼩禄の集落の周りは何があったんですか︖
忠清さん︓集落の周りはみんな畑。タマナー(キャベツ)、葉物に、トマト、シブイ(冬⽠)、⼤根、⼈参…ナンクヮー(かぼちゃ)は少なかったかな。⼩禄にはカー(井⼾)がたくさんあったし、クムイ(ため池)もあちこちにあった。⼦どもたちはこういう⽔辺で遊んだわけさ。
―(1948年の地図を⾒ながら)ここにも結構⼤きな池が描かれていますね。
忠清さん︓そうそうここにも池があった。今の⼩禄⼩学校の⽅から降りてきたら給油所があるでしょう。あの辺りに池があって、泳いで遊んでいた。池の名前は特になかったよ。上の⽅(イオン那覇⽅⾯︖)からカーラ(川)がきていて、ここで池になっていた。


⾚い丸で囲まれたところが池。この頃はまだ⼤々的な埋め⽴てが進んでおらず、ガーナー森も浮島のまま。
(※地図は「今昔マップ on the web」より加⼯して引⽤)


忠清さん︓あとはサトウキビも作っていたね。ちょうど今、⼩禄の⾃治会館があるところの向かい。戦前はそこにサーターヤー(砂糖⼩屋)があった。ムラ(字⼩禄)のサトウキビ⽣産者が組合を作って、そこが管理していた。作った⿊糖は樽に詰めて内地に売っていたよ。畑にはそれぞれチブ(壺)がおかれていた。これは⼈糞を⼊れるもの。あの頃の肥料といったら⼈糞だからね。壺に⼊れてしばらく置いてから、肥料として使っていた。わざわざ那覇(⻄町・東町⽅⾯)までもらいに⾏ったよ。
―えっ。わざわざ那覇までもらいに⾏ってたんですか︖
忠清さん︓そうだよ。⼩禄は⼤きいムラだったけど、それでも⾜りなかったから。那覇の⽅も持って⾏ってもらえて助かるわけさ。そのうち鏡⽔の⼈たちももらいに来るようになって、あとはお⾦出して買ってたよ。
―家畜の糞とかは︖家畜はいなかったんですか︖
忠清さん︓豚はどこの家でも飼っていたけど、⼤抵は1〜2頭。余裕がある家は3〜4頭養っていたね。⼩禄は⽔も豊富で⼤きなムラだったけど、それでもあの頃はみんな貧しかった。⼟地も⾜りない。だからハワイやブラジルに移⺠していったわけさ。カサト丸って知ってる︖あれに乗って。先に移住した⼈からの呼び寄せとかもあって、⼩禄からはたくさんの移⺠が出た。「移民」というけど…実際は「棄民」というのか…。⾃分のおじいさんも104年前にブラジルに⾏ったんだよ。始めはコーヒー園で働いた後、汽⾞のレールを敷く仕事をして、そこでマラリアにかかって27歳で亡くなった。貧しい時代だったんだよ。戦前の小禄の人たちの仕事は農業。あとは機織りと、パナマ帽も作って内地に売っていたね。
ヒロ⼦さん︓ウルククンジー(⼩禄紺地)っていってね。機織りは⼥の⼈の仕事。
忠清さん︓そう。染屋もあったよ。今ホテル(オロックス)になっている所。戦前はあそこにウルククンジーの染屋があった。染屋の前はもう岸で、港というか、船着き場になっていた。
―潮が引くと船も通れなくなったんじゃないですか︖
忠清さん︓この辺は完全に潮が引くことはなかったよ。ティンマーセン(伝⾺船)に樽を載せていくわけ。今は埋め⽴てられてしまっているけど、ガーナージュー(ガーナー森)の横を通って、ウティンダ(落平)の前も通って那覇まで⾏ったよ。あの頃のウティンダは本当に⽔が豊富だった。
ヒロ⼦さん︓ウティンダから⽔が流れ出ていたのは私もとても印象に残ってる。きれいだったよ。
忠清さん︓ここの⽔を樽に汲んで、船でワタンジ(渡地)まで運んで売っていた。ウティンダのこう、崖の上というか、そこには⼤きな松が何本も⽣えていてきれいな場所だった。松が⾬を受け⽌めて、⾬⽔がゆっくり岩に浸透して、きれいな⽔がたくさん流れ出ていた。戦前はね。


現在の落平(ウティンダ)。⾬⽔が岩肌からしみ出している。


●戦争の影響●
―今は松の⽊もないし、⽔も流れてないですね。
忠清さん︓戦争の時、壕を掘るでしょ。壕の天井の⽀えに使うために、⽇本軍が松の⽊をみんな切ってしまった。今あそこは、全部⼈の家になっているね。ウティンダの前の海も埋め⽴てられた。あそこは⽶軍が、1950年頃に那覇港を浚渫した時、その⼟砂を全部ここに捨てて埋め⽴てたんだよ。⼤きなパイプで吸い上げて流し込むわけ。那覇軍港には⽶軍の⼤きな発電船※1も停泊していたよ。⽶軍からしたら、発電所を作るよりも発電船を持ってきた⽅が早かったんだね。移動もできるし。
ヒロ⼦さん︓戦後私は垣花に住んでいたから、発電船の煙でしょっちゅうくしゃみが出てね。
―船から煙が出ていたんですか︖
ヒロ⼦さん︓ディーゼルを燃やしていて、その煤塵というのか、それで喉をやられてしまって。結婚して⼩禄の1丁⽬に引っ越したけど、湿気が強くてそこでも⿐炎がひどかった。
忠清さん︓今のところに引っ越してきてからはましになったよね。ガーナージューの辺りを埋めたのは鏡⽔シンカー(鏡⽔の⼈たち)だったよ。鏡⽔も⼟地をとられてしまっていたから。⼩禄の⽅に移ってきたけど、⼟地が⾜りないから⺠政府に許可をもらって。
―埋め⽴てた所は周辺に住む⼈たちが普段の⽣活で利⽤していた場所ですよね︖⾙や⿂をとったり、⽔を汲んだり…。誰か埋め⽴てに反対しなかったんですか︖
忠清さん︓あの頃は戦後すぐだったから、反対とか何とかないわけ。⽇本は敗戦国だから。決められたら従うだけ。

●後編へ続く●
⻑くなったので、とりあえずここまで︕実はこのインタビュー、1時間程度のつもりでいたのが3時間もかかってしまいました。忠清さんヒロ⼦さん、その節は⻑々とすみませんでした(^^;)
後編ではもう少し詳しく、当時の漫湖の様⼦をご紹介します。そして当時⼦どもだった忠清さんの漫湖の思い出話も。
お楽しみに︕

★★★この聞き書きシリーズは、「記憶さんぽ」という記事としても発行しています。センターのほか、真玉橋公民館、那覇市地域包括支援センター古波蔵、国場自治会、豊見城市中央公民館、小禄南公民館、小禄自治会の計7カ所に置いていますよ。是非お手に取ってみてくださいね!★★★

5/30追記
※1 インピーダンス号という名の発電船だそうです。情報提供有難うございます!

11/9追記
落平に関するお話の中で、「落平の水で商売をしていたのは小禄の人達」との発言は聞き間違いであったことが分かったため、削除いたしました。お詫びして訂正させて頂きます。

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